尼崎城~尼崎競艇場へ
阪神:尼崎駅~尼崎城~旧尼崎警察署~櫻井神社~機銃掃射弾痕の跡~本興寺~尼信世界の貯金箱館~尼崎競艇場
本来はポッチーが担当なのですが体調不良が続き姫が代行することとなりました。
「尼崎で何を見るの?」と不思議がるかもしれません。これが歩いてみてわかったのですがなかなかどうして味のある歴史のある町でした。

集合は阪神電車尼崎駅改札口に午前9時30分でしたが「駅そば」を食べて、その後、尼崎名物のたい焼きを買うというので少し早めに到着しました。駅構内にある「うどん・そば」の暖簾をくぐろうとすると中からひょっこり正ちゃんが・・・うどんを食べ終えて出てきたところでした。(思いは同じなんやね)その後、たい焼き屋に行きましたがまだ開店しておらず名物のたい焼きは買えずで残念でした。
▲ 阪神そば ▲ 駅の床案内表示 ▲ マンホールの蓋
▲ 阪神電車:尼崎駅西口集合 ▲ 阪神大展記念 時計台
ポカポカ陽気で気持ちの良い朝なのですが、空を見上げると、ところどころに雨雲が私達の後を追うようにうごめいていました。阪神尼崎駅から庄下橋を渡るとすぐに尼崎城です。紅梅の良い香りがマスクをしていてもさわやかに匂ってきます。ちょっとマスクの隙間をあけて梅の香りを楽しみました。残念ながら城の中は月曜日休館となっており入ることは出来ませんでしたが外周だけでも充分楽しめました。
▲  尼崎城
兵庫県尼崎市の阪神尼崎駅近くに、尼崎城天守が約145年ぶりに再建された。 2019年3月29日から一般公開された。 天守は鉄筋コンクリート造り5階建てで、石垣部分を含め高さ約24メートル。 旧ミドリ電化(現エディオン)創業者の安保詮(あぼあきら)氏(85)が「創業の地・尼崎に恩返ししたい」と約12億円で建設し、市に寄贈した。
▲ 旧阪神電車 尼崎発電所 
明治38年4月12日、大阪〜神戸間を結ぶ日本初の本格的都市間電気鉄道、阪神電気鉄道本線が開通し、尼崎駅が開業していますが、その前年の明治37年8月5日、尼崎車庫が完成。その阪神電気鉄道本線に電気を流すため、イギリス人技士の設計築かれたのが尼崎発電所で、明治38年4月7日に送電を開始しています。
レンガはイギリスから、レンガを支えるアングル鋼はアメリカから輸入されたもの。
開業当初、尼崎発電所と御影発電所(みかげはつでんしょ=現・神戸市東灘区)に400kWの直流発電機を2基設置し(1基は予備)、明治41年からは余剰電力を沿線中間の3町16村に供給しています。
明治28年、蹴上(けあげ)に琵琶湖疎水を使った水力発電所を築き、日本初の電車として京都電気鉄道が開業していますが、それからわずか10年で、本格的都市間電気鉄道として阪神電気鉄道本線が開通しています。
発電施設は、蒸気機関車と同様に、石炭ボイラーで作った蒸気のエネルギーを運動エネルギーに変え、発電するというレシプロ式。
ボイラーは、アメリカのバブコック・アンド・ウィルコックス社(Babcock & Wilcox Company)製、発電機はゼネラルエレクトリック社(General Electric Company)などすべてアメリカ製。大正8年4月6日に休止するまで、現役で発電を続けていました。その後、鉄道関係の資材倉庫に転用されています。
▲ 尼崎城天守閣 ▲ 展示場は本日はお休み
▲ お城の広場は人工芝でした
▲ シャチホコポス  ▲ 契沖生誕の比定地碑 
契沖生誕の比定地碑とシャチホコポストもありました。契沖は「あまの偉人」として有名で1650年に数え年11歳で出家。13歳で剃髪して高野山に上ります。そして、23歳で現在の大阪市天王寺区にあった曼陀羅院の住職となりました。幼少より歌に親しみ、多くの歌を詠んでいた契沖は、その頃より、終生の友となった、和学者であり歌人でもある下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)との親交を深めていきます。
「声はして 空行雁の つらつらに みれどもみえず かすむ夕ぐれ」契沖の詠んだ詩です。
「声はするが姿は見えない。連なって空を行く雁を、よくよく目を凝らして見ようとするが見えないほどに霞んでいる夕暮れ」というような意味らしいです。
シャチホコポストは観光用で「鯱がここから出されたお手紙を守り、幸せを運んでくれることを祈ります」とのメッセージで締めくくられた案内板も設置していました。
  ▲  「流木アート展示場」  
シャチホコポストから目と鼻の先に「流木アート展示場」と書いてあり建設会社の敷地内に流木を動物に例えて飾ってありました。旧尼崎警察署の建物や尼崎城本丸天守跡、尼崎市歴史博物館などが並んでおり、昔はここらあたりが町の中心地であった事が想像できます.
▲ 国道43号をくぐる歩道の壁絵です
▲ 櫻井神社です
桜井神社(さくらいじんじゃ)は、兵庫県尼崎市にある神社。旧社格は郷社。庄下川東岸に位置。正徳元年(1711年)の転封から幕末まで尼崎藩を治めた桜井松平家(松平氏、明治以降は桜井氏に改姓)の、初代信定から16代忠興までを祀る。
▲ 機銃掃射による弾痕が残る街角の塀
櫻井神社を出て開明橋を渡ると公園があり、その一角に機銃掃射による弾痕が残る塀がありました。ロシアやウクライナはこんなものではないと思いますが戦争の恐ろしさを今の世に伝えるべく貴重な場所でした。戦後77年以上たっても残っているものなんですね。
▲ 本興寺 開創 応永27年(1420)   開山 日隆聖人
本興寺は応永27年(1420)に当時の尼崎城主である細川満元の帰依を得て開創されました。元和3年(1617)領主戸田氏の尼崎城築城の際、代地として現在地を得て移転し今日に至っています。
ここは日隆聖人ご入滅の聖地であり、聖人が日蓮大聖人の教えを正しく伝えるために著された三千余帖(三百余巻)の「御聖教」(おしょうぎょう)が格護されています。
また宝物も多く、国指定重要文化財は日蓮大聖人の御所持の太刀「数珠丸」、御開山日隆聖人御木像、開山堂、方丈、三光堂の五点があり、その他にも県・市の文化財もあります。その他重要宝物として「宗祖御真筆三幅対本尊」(しゅうそごしんぴつさんぷくついほんぞん)をはじめ、信長等の武将の「禁制」(きんぜい)や美術品なども保存され、毎年11月3日の「虫干し会」に一般公開されています。
境内には享徳3年(1454)に「勧学院」が創設され、現在は「興隆学林専門学校」と名を改めて全国から多くの僧侶希望者が修行と学問に励んでいます。また日隆聖人ゆかりの「御霊水」が市民にしたしまれています。
しばらく歩いて行くと尼崎信用金庫世界の貯金箱博物館がありましたが、残念ながらここも月曜日休館でした。急に力が抜けて階段を利用しておやつタイムです。チョコレートを頬張りながら怪しくなっていく雲を見上げているとポツポツと雨粒が落ちてきました。
▲  尼崎信用金庫 世界の貯金箱博物館
尼崎信用金庫 世界の貯金箱博物館は、日本はもちろん、欧米やアジア、中東など古代から現代まで世界62ヵ国、24,000点を超える貯金箱を収蔵する、わが国最初の貯金箱博物館です。
▲ 貴布祢神社 ▲ 上:大気常時観測局
阪神電車・出屋敷駅に通りかかりましたので雨宿り兼ねてたこ焼き店に入りました。 ▲ 下:出屋敷駅構内店「アマトラ」
蓬川バラ園は冬の時期に咲いているバラは一輪もなく散策しながら歩いて行くと、尼崎ボートレース場の警備員らしき人が大勢立っていました。今回のコースに尼崎ボートレース場見学も入っているため迷わず100円の入場料を払い中に入りました。みんな初体験です。阪神電車の中から眺めていていつか行ってみたいねと言ってましたので念願かなったというところでしょうか。
姫とjunkoちゃんはサイフを握りしめて予想屋のおっちゃんに教えて貰いながら6レースを大枚400円出して購入しましたが・・どれがどれだかわからず、それでも払い戻し機の前まで行き配当金を調べましたが「該当していません」とのAIの冷たいアナウンスの声にガッカリ(当たっていると思ったのが間違いよ~)なかなかおもしろい体験をさせて貰いました。
本格的な遅い昼食は回転ずし(廻っていない)に行きました。世間を騒がしているためか、寿司は廻っておらず、すべてパネルタッチの注文です。各自払いのシステムに5人ともパネルと格闘する羽目になりました。支払い時も自動です。「あれほど食べたのに安いっ!」5人の感想です。「またいこう!」
満腹で駅に向けてヨタヨタと歩いていると阪急塚口行きのバスが停車していました。「正ちゃん!junkoちゃん!早くから早く~」とバスに駆け込み解散となりました。私たちは阪神電車・尼崎センタープール駅から電車に乗り、それぞれの自宅に向けて帰りました。
 終わりに
尼崎は労働者の町のイメージが強く観光地はあるのか・・・半信半疑でしたが結構な歴史の町でした。
思いのほか楽しかったです。10㎞は軽く歩きました。3月は宇治に向けて、4月はイタドリの季節でみんな忙しいのであります。(私だけかぁ?)