新春ウオーク
近鉄:橿原神宮前駅~橿原神宮参詣~神武天皇陵参詣~塚根山古墳~今井町~近鉄:大和八木駅
 2023年の歩き始めは橿原神宮参拝と今井町の町並み歩きとなりました。担当はジョンさんです。近鉄・橿原神宮前駅 9 時集合です。8時59分橿原神宮前駅着の電車でjunkoちゃんと合流出来ました。 駅構内にある柿の葉寿司の店のシャツターの開くのをまって柿の葉寿司ゲット。改札をでたところには正ちゃんと靖ちゃんが既に待っていてくれました。新年のあいさつを交わしポカポカ陽気に誘われるようにして橿原神宮へと向かいました。
駅から神宮までの参道
橿原神宮は建国の聖地とも言われており、ここから日本という国がはじまったと言われております。日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。天照大神〈あまてらすおおかみ〉の子孫である神日本磐余彦火火出見天皇〈かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)舌噛みそうやね。のちの神武天皇の事らしいです。

豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山〈うねびやま〉東南の麓に橿原宮を創建されました。神武天皇、媛蹈韛五十鈴媛皇后(ひめたたらいすずひめこうごう・・神武天皇の皇后) 
神武天皇は、天照大神〈あまてらすおおみかみ〉の御孫・瓊瓊杵尊〈ににぎのみこと〉の三代目にあたり、「神日本磐余彦火火出見天皇〈かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと〉」と申し上げます。(どれもこれも長ったらしい名前ばかりで覚えられません)
一の鳥居 南神門
鳥居の太さにびっくり!  南手洗舎
しばらく歩くと橿原神宮の大きな第一の鳥居が見えてきました。物凄くおっきいです。 そこから参道へと入り橿原神宮第二鳥居をくぐって外拝殿 内拝殿をお参りしました。正月3ケ日は大変混雑していたことでしょう。しかし10日も過ぎれば静かな境内でコロナ感染の心配もなく、ゆっくりと参拝することができました。 
やまたび倶楽部 2023年ミーティング中   長山稲荷社
橿原神宮本殿
大絵馬 奉納酒 〔酒は飲めないけど……なんたってヤタガラスよ〕
北神門 北参道鳥居
参詣後は北神門から出てしばらく歩くと神武天皇陵畝傍山東北稜参道入り口が見えました。生い茂った大木のトンネルを長々と歩くと百舌鳥古墳でみたあの同じ光景が目に入りました。神武天皇陵畝傍山東北稜拝所に到着です。
神武天皇陵碑 参道入り口 参 道
  神武天皇陵畝傍山東北稜拝所
  神武天皇陵畝傍山東北稜拝所 綏靖天皇桃花鳥田丘上陵
 塚根山古墳〔綏靖天皇桃花鳥田丘上陵〕  塚根山古墳外で昼食です
参詣後は車道を進み500mほど進むと塚根山古墳〔綏靖天皇桃花鳥田丘上陵〕がこじんまりとして見えました。時間は午前11時を回ったところで陽だまりを見つけて少し早いですがランチタイムとしました。みんな奈良県名物の柿の葉寿司です(正ちゃんはおにぎりかな?)
昼食後、再び県道125号の橿原神宮公苑線に戻り高架橋をくぐり、1300ほど、進むと今井町の看板が目に入りました。
橿原市観光協会
【今西家住宅】
今西家は、惣年寄の筆頭で、領主、代官の町方支配の一翼を担い、自治権が委ねられていました。当初は河合氏を名乗っていましたが、郡山城主松平忠明から薦められて五代目から今西氏を名乗るようになりました。
建物は、外観を白漆喰塗籠(しろしっくいぬりこめ)で、大棟の両端に段違いに小棟を設け、入母屋造りの破風を前後喰違いに見せ、本瓦葺で、堂々とした城郭風の外観になっています。内部は広い土間と六間取りの部屋および別棟の角座敷きが付属しています。
町の西端に位置し、惣年寄の筆頭を務めていた名家。城郭を思わせる外観は「八つ棟造り」と呼ばれ、白漆喰塗籠入り母屋造りの破風を前後喰違いに見せた本瓦葺に圧倒されます。
内部にある広い土間は「お白洲(裁きの場)」としても使われ、罪人を閉じ込めた「いぶし牢」も残っています。
 【旧米谷家住宅】
 かつて「米忠」という屋号で金物屋を営んでいた豪商の旧家です。今井町では珍しい広い土間には大きなかまどが残り、土間を抜けた先には数寄屋風の蔵前座敷も。また、裏庭の縁側は、CMのロケ地として話題になりました。

中町筋北側に面し、切妻造、本瓦葺き、平入りで立ちの低い町家です。内部は東側に通り土間、土間の隅はシモミセを取り、居室は珍しく五間取りです。裏庭に建つ土蔵は、数奇屋風の蔵前座敷を付属しています。
旧米谷家は、珍しく広い土間、煙返しなど、むしろ農家風の民家としてのイメージが強い建物です

  【豊田家住宅】 
御堂筋の称念寺の向かいやや西寄りに位置しています。屋根は入母屋造、本瓦葺で軒は高く、2階軒は出桁造りとなり、旧は木材商らしく、2階正面の壁に丸に木の字の紋をつけた豪壮な外観です。内部は、東側が土間としもみせで、居間部は整った六間取りです。建築年代も古く、納戸構など各所に古式の手法が残っています。納戸の敷居は一段高くなっており、「敷居が高い」の語源になった高い敷居があります。
 【中橋家住宅】
当家は称念寺東方斜め筋向かいの御堂筋北側に面する中規模な民家です。屋号は「米彦」米屋彦六といい、代々米屋を営んでいましたが、幕末には肥料、金物商も合わせて営んでいました。称念寺の1748年(寛延元年)の古図にはこの地に屋敷を構えていますが、現在の建物は構造・手法から18世紀後半頃のものと考えられます。道路に面した側面は白壁、下部板壁となっています。内部は、西側を土間、東側は食い違い6間取りとなっています。土間の西南隅に内部を開放とした「しもみせ」とをとります。当家はかなり進んだ時期の一般的持家層の好例といえましょう。また、正面上部に低い「つし2階」が後に増築されました。
 【上田家住宅】
 大工町筋の南側に位置し、西面にも道があって角地に建っています。当家は、葛下郡片岡新助の子孫で、1570年(元亀元年)に今井に移住したといわれ、今西・尾崎氏とともに惣年寄(そうどしより)を勤める傍ら、屋号を「壷屋」と称し、江戸時代初期には酒造業も営んでいました。1635年(寛永11)には有力商家とともに「今井札」を発行する程優れた経済力を持っていました。道路境より後退して建て、入口を西側に設けるかわった構造となっています。主屋は平入りで、2階の軒は低く、内部は北側に土間、南側は整形6間取りとなっています。今井町での上層町家が発展していたことを示す好例とみられます。
ここには河合家住宅、中橋家住宅、今西家住宅 上田家住宅などの重要伝統的建造物群保存地区がありました。
今井町は、かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した今井町だそうです。
現在も町の大半の町家が大切に保存され、江戸時代の姿を残しています。多くの古民家が現存している今井町の町並みは、歴史的風致を形成している伝統的な建造物群の中でも特に価値の高いものとして、平成5年に「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けています。 橿原市の中部、飛鳥川の流れにかかった蘇武橋の手前で樹齢420年という大きなエノキの大木の根元で長い休憩をとりました。420年前にタイムスリツプした様な気分です。
蘇武橋の橋のエノキ 今井町案内板
ゴールは近鉄・八木駅です。初歩き14,658歩8.7kmよく歩きました。
本年も元気で歩けますように
 終わりに
北国ではドカ雪で大変だと言うのに1月とは思えないほどの温かさで新春初歩きにふさわしいコースでした。橿原神宮で願い事をして奈良の伝統的な建物保存地区を散策しました。
しかも帰りの近鉄電車の椅子の暖房が熱すぎてお尻が火傷しそうでした(笑)。全員疲れていたのか車内で熟睡し「鶴橋駅に着いたよ!」の声で全員ホームに飛び出ましたが・・「布施駅」でした。あわてて電車に乗り込みセーフ~
 ●ポッチーからの伝言板
主治医からドクターストップがかかりました。山登り、ハイキングを控えるように、階段の上り、下りは、エレベーターやエスカレーターを使用し、寒い時期は無理しないように
温かい日に軽い散歩程度をとアドバイスされました。日課の負荷を掛けての自転車漕ぎもしばらく体調が良くなるまで中止と言われました。まことに申し訳ありませんがしばらくお休みさせて頂き留守番隊として参加させてください。勝手申してすみません。