|
【今西家住宅】 |
今西家は、惣年寄の筆頭で、領主、代官の町方支配の一翼を担い、自治権が委ねられていました。当初は河合氏を名乗っていましたが、郡山城主松平忠明から薦められて五代目から今西氏を名乗るようになりました。
建物は、外観を白漆喰塗籠(しろしっくいぬりこめ)で、大棟の両端に段違いに小棟を設け、入母屋造りの破風を前後喰違いに見せ、本瓦葺で、堂々とした城郭風の外観になっています。内部は広い土間と六間取りの部屋および別棟の角座敷きが付属しています。
町の西端に位置し、惣年寄の筆頭を務めていた名家。城郭を思わせる外観は「八つ棟造り」と呼ばれ、白漆喰塗籠入り母屋造りの破風を前後喰違いに見せた本瓦葺に圧倒されます。
内部にある広い土間は「お白洲(裁きの場)」としても使われ、罪人を閉じ込めた「いぶし牢」も残っています。 |
|
|
【旧米谷家住宅】 |
かつて「米忠」という屋号で金物屋を営んでいた豪商の旧家です。今井町では珍しい広い土間には大きなかまどが残り、土間を抜けた先には数寄屋風の蔵前座敷も。また、裏庭の縁側は、CMのロケ地として話題になりました。
中町筋北側に面し、切妻造、本瓦葺き、平入りで立ちの低い町家です。内部は東側に通り土間、土間の隅はシモミセを取り、居室は珍しく五間取りです。裏庭に建つ土蔵は、数奇屋風の蔵前座敷を付属しています。 旧米谷家は、珍しく広い土間、煙返しなど、むしろ農家風の民家としてのイメージが強い建物です
|
|
|
【豊田家住宅】 |
御堂筋の称念寺の向かいやや西寄りに位置しています。屋根は入母屋造、本瓦葺で軒は高く、2階軒は出桁造りとなり、旧は木材商らしく、2階正面の壁に丸に木の字の紋をつけた豪壮な外観です。内部は、東側が土間としもみせで、居間部は整った六間取りです。建築年代も古く、納戸構など各所に古式の手法が残っています。納戸の敷居は一段高くなっており、「敷居が高い」の語源になった高い敷居があります。
|
|
|
【中橋家住宅】 |
当家は称念寺東方斜め筋向かいの御堂筋北側に面する中規模な民家です。屋号は「米彦」米屋彦六といい、代々米屋を営んでいましたが、幕末には肥料、金物商も合わせて営んでいました。称念寺の1748年(寛延元年)の古図にはこの地に屋敷を構えていますが、現在の建物は構造・手法から18世紀後半頃のものと考えられます。道路に面した側面は白壁、下部板壁となっています。内部は、西側を土間、東側は食い違い6間取りとなっています。土間の西南隅に内部を開放とした「しもみせ」とをとります。当家はかなり進んだ時期の一般的持家層の好例といえましょう。また、正面上部に低い「つし2階」が後に増築されました。 |
|
|
【上田家住宅】 |
大工町筋の南側に位置し、西面にも道があって角地に建っています。当家は、葛下郡片岡新助の子孫で、1570年(元亀元年)に今井に移住したといわれ、今西・尾崎氏とともに惣年寄(そうどしより)を勤める傍ら、屋号を「壷屋」と称し、江戸時代初期には酒造業も営んでいました。1635年(寛永11)には有力商家とともに「今井札」を発行する程優れた経済力を持っていました。道路境より後退して建て、入口を西側に設けるかわった構造となっています。主屋は平入りで、2階の軒は低く、内部は北側に土間、南側は整形6間取りとなっています。今井町での上層町家が発展していたことを示す好例とみられます。 |
|