歴史探訪   
南海電車・高野線 堺東駅~古墳巡り~JR阪和線・百舌鳥駅
まず素朴な疑問から解決した後に歩き始めたいと思います。
ふりがなで「もず」と二文字なのに漢字で書くと「百舌鳥」と3文字とはこれいかに?(アホかって言われそう)地名の読み名は難しいということです。今回は歴史ウオークとなりました。何度も訪れて思うのですが空中から見ないと古墳の全景は見られない。ただ周りをグルグル回っているだけ、世界遺産を空から自分の目で見てみたい。しかし天皇陵を頭上から見下ろすことは御法度と言うことで公園の中にある「平和の塔」は当初の目的を果たさぬまま「入室禁止」となっています。勿論ヘリコプターなども上空の飛行禁止。
難波駅で集合し南海電車・堺東駅から歩き始めました。熊野古道歩きの時や市民ハイキングなど何度も訪れていますが主だった古墳だけ見て歩いていますので今回は地図に忠実に歩こうと「6kmゆっくり楽しく歩こう」をキャッチフレーズにスタートしました。まずは反正天皇陵古墳を目指して歩きます。道標もしっかりと付いています。アルファルトにも方向を示すタイルがはめ込んでありました。鈴山古墳、天王古墳、樋の谷古墳など、こんもりしたお山がそれらしく見えるだけでどの古墳も、同じような樹木に覆われて看板のみを巡り歩いていました。看板の片隅にQRコードでもつけてくれていたらもっと楽しく歩けるのになぁ。 
 「百舌鳥という名前の由来について」
百舌鳥という漢字の由来は、他の鳥の鳴き声を真似することができることに由来しています。モズは実に100種類にも及ぶ鳥の鳴き声を真似できるといわれており、他の鳥の複雑なさえずりも真似することができるそうです。このことから「百の舌を持つ鳥」という意味で、『百舌鳥』と漢字表記されるようになったと考えられています。ちなみに多種多様な鳴き声を出せるのはオスだけで、これはメスにアピールするためなんだとか。鳴き真似が上手なオスほど、メスからモテるそうです!(鳥の世界も人間とおんなじやね)もともとは「百舌」だった?もともとモズは「百舌」と表記されており、それが主流だったそうです。
しかし、「百舌」だけでは猫なのか、犬なのか、鳥なのか何を表しているのか分かりにくいということになったらしいです。では百の舌を持つ鳥と言うことで、鳥を加えて『百舌鳥』と表記するようになった、と考えられています。モズは、漢字による表記も存在します。その場合の表記は『鵙』です。これは目をキョロキョロさせて獲物を捕獲する様子にちなんでいるようです。
南海電車高野線・堺東駅から辻々に建つ案内標識に沿って歩きます  ようこそ百舌鳥へ
  反正天皇陵古墳(田出井山古墳)
 百舌鳥古墳群北端にある全長約148mの天皇陵では小さい方の前方後円墳。5世紀中頃の築造で陪塚とされる古墳2基、二重濠の存在が確認されています。百舌鳥3陵の一つ百舌鳥耳原北陵とも呼ばれています。
百舌鳥古墳群の北端にある前方部を南に向けた前方後円墳で、現在は百舌鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として宮内庁が管理しています。墳丘の規模は全長約148m、後円部径約76m、高さ約13m、前方部幅約110m、高さ約15mで百舌鳥古墳群では7番目の大きさです。仁徳天皇陵古墳の1/3ほどの大きさで、天皇陵では小さいほうですが理由はよくわかっていません。墳丘は3段に築かれその形や出土した埴輪から、5世紀中頃に造られたと考えられています。
現在一重の盾型周濠がめぐっていますが、周囲で行われた発掘調査で、かつて二重濠があったことが確認されています。
   鈴山古墳
反正天皇陵古墳の東側にある同古墳の陪塚とされる一辺22m程の方墳。一部が削られているため形が変っていますが、埴輪が立てられ濠がめぐらされていたと考えられています。
反正天皇陵古墳(田出井山古墳)の東側にありその陪塚と考えられ、一部が削られているために形が変っていますが方墳です。一辺が22m程で埴輪が立てられており、濠がめぐらされていたと考えられています。
  天王古墳
 反正天皇陵古墳東側にある円墳のように見える1辺11m程の方墳。同古墳の陪塚で濠がめぐらされていたと考えられています。
反正天皇陵古墳(田出井山古墳)の東側にあり、その陪塚と考えられています。円墳のように見えますが方墳で、1辺が11m程で濠がめぐらされていたと考えられています。
  方違神社
 河内・和泉・摂津三国の境にある方位のない清地とされ、方除祈願で有名。遠方への旅や家を移る時などに参れば災難に遭わないという言い伝えから、新築・転居等の厄除けで各地から多くの人々が参詣に来ます。
河内、和泉、摂津の三国の境にあり、方位のない清地とされ、方除祈願で知られています。古くから遠方へ出かける時その方向がよくない場合に、一度別方向に向かってから出かける風習がありました。方違神社はそのような時にお参りする全国でも珍しい神社で、遠くへ旅する時や家を移る時などに、ここに参れば災難に会わないという言い伝えがあり、新築や転居等の方災除けで各地からたくさんの人々が参詣に来ます。清めの御砂、方災除の粽(チマキ)は大変御利益があるそうで、5月31日のちまき祭は故事にならい、菰(こも)の葉で包んだ粽が氏子に分けられます。「ほうちがい」さんと呼ばれて親しまれています。
旧境内地には暖かい地域に多く生育する常緑樹「くろがねもち」があり、市内の40本をこえる大木の中でも径・幹周が一番大きく、かなりの樹齢をもつ巨樹で府の指定天然記念物になっています。また、9月中旬のふとん太鼓の秋祭りでも知られています。
方違神社の玉垣  ここは熊野に続く道
方違神社のクロガネモチ 
 旧天王貯水池
旧天王貯水池は、明治43年(1910年)に計画給水人口6万人の規模の上水道配水池として建設され、昭和39年まで約50年間にわたり、その役割を担ってきました。
 明治43年の水道施設の建設は、大阪府下では大阪市(明治28年建設)に続くもので、市民の大きな期待が寄せられたものでした。
 建設にあたっては、出入口を初めとして全体を、その当時の最新の建材であった煉瓦で造っています。正面入口には水道施設の先進地であるヨーロッパで用いられていた建築の古典様式にならい「凱旋門」風のデザインが採用されました。
 建物内部では、点検用の通路を中央に通し、両側に貯水槽が造られています。それぞれの貯水槽は5つに区切られ、内部は半円筒のヴォールト架構になっています。
 また外部は、貯水槽の周囲に土を盛り上げて、直射日光などをさえぎることで細菌の繁殖を防ぎ、水質の安全をはかってきました。
 このように、旧天王貯水池はそのデザインと施工技術の優秀さの面で建築的にきわめて価値が高く、また堺における上水道の歴史の一端を知る上で貴重な建物であるといえます。  
西高野街道を歩いていると国道310号に遮られ高架橋を渡ります 仁徳天皇陵古墳が目の前に現れます
濠にはカモや鵜が心地よさそうに泳いでいました。足を止めて眺めていると上手に小魚をクチバシにくわえている姿は時間を忘れて心が癒されます。名前の由来になったモズを探しましたが見つかりませんでした。古墳の説明板は日本語と英語で表記さけておりさすが世界遺産、海外からの訪問者もあることを知ることが出来ました。 
 永山古墳
 堺市の世界遺産としても知られる仁徳天皇陵のすぐ近くにある永山古墳。
全長100mの前方後円墳です。5世紀に造営されたもののようです。
西側のくびれ部分には造り出しがあって、そこで祭祀が行われていたのでないかと推測されます。
東側のくびれ部には土手があり濠を渡って古墳側に行くことができるようになっていますが、残念ながら立ち入りは禁止されています。
埋葬者や副葬品は判明していませんが、1928年には前方部分から円筒埴輪が出土しています。
永山古墳  歴史街道案内標識
 丸保山古墳
 大仙陵古墳外堀西側近傍にあり、墳丘主軸線は、大仙陵古墳墳丘主軸線と同一方向を指向していること、および、位置関係から、大山陵古墳の陪塚と考えられている。また、すぐ西側に円墳の菰山塚古墳があり、また南側には、かつて古墳様の高まりがあり、これらも陪塚と考えられる。大きさは墳丘長87m、後円部直径60m、後円部高さ9.8m、前方部幅40m、前方部高さ2.7m。形状は、帆立貝形古墳で前方部は短く南向きで、1955年(昭和30年)に開墾により削られ低くなっているが、後円部は2段に築かれ、周囲には濠がある。帆立貝形古墳としては百舌鳥古墳群の中で最大の規模を誇る。埋葬施設の構造や副葬品の内容などは判明していないが、採集された円筒埴輪片から5世紀後半頃に築造されたと考えられている。後円部は宮内庁が、前方部と周濠は堺市が管理している。
 菰山塚古墳
 現在は円墳状の墳丘が残るのみで旧状をとどめませんが、元は墳丘全長33m、高さ4mの前方部が南向きの小規模な帆立貝形の前方後円墳でした。
現在は住宅に取り囲まれた円墳状の墳丘が残るのみで旧状をとどめませんが、もとは墳丘全長33m、高さ4mの前方部が南を向く小規模な帆立貝形の前方後円墳でした。
 樋の谷古墳
 仁徳天皇陵古墳の三重濠西側面ほぼ中央の濠が膨れた部分にある径47mの不整形な古墳。濠を浚渫する時の土を盛ったものともいわれています。
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の三重濠の西側面、ほぼ中央の濠が膨れた部分にある径47mの不整形な古墳で、濠を浚渫した時の土を盛ったものともいわれ、古墳かどうかは疑問視されています。
 茶山古墳
 仁徳天皇陵古墳の後円部外側の第2堤上から三重濠に張り出す径56mの円墳。古墳名は秀吉が狩りをした時の陵上の仮居宅跡を、茶屋山と呼んだという「堺鑑」の記事に由来します。
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の後円部外側の第2堤上から、三重濠に張り出すようにある2基の古墳のなかの西側にある、径56m、高さ9.3mの円墳です。茶山の呼称は、「堺鑑」に豊臣秀吉が仁徳天皇陵古墳で狩りをした時に、陵の上で仮の居宅を構えたあとを、茶屋山と呼んだという記事があることに由来します。
 大安寺山古墳 
 仁徳天皇陵古墳の後円部外側の第2堤上から三重濠に張り出す径62m、高さ9.7mの円墳。古墳名は古くは大安寺の所有地だったことに由来し、別名「寺山」と呼ばれていたようです。
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の後円部外側の第2堤上から、三重濠に張り出すようにある2基の古墳のなかの東側にある、径62m、高さ9.7mの日本最大級の円墳です。古墳の名前は古くは大安寺の所有地であったことに由来し、別名「寺山」とも呼ばれていたようです。 
 源右衛門山古墳
直径34m、高さ5.4mの円墳の墳丘部は仁徳天皇陵古墳の陪塚に指定されています。
現状は直径34m、高さ5.4mの円墳の墳丘部が仁徳天皇陵古墳の陪塚に指定され宮内庁が管理しています。
あまり家がなかった頃の地図でははっきりと濠の跡が残っていました。古墳の西側と北側の道路に、濠の跡を明示しています。民家や建物に挟まれていますが西側と北側の道路から柵越しに見学できます。
    塚廻古墳
 塚廻(つかまわり)古墳は、2段築成の円墳で、埴輪が立て並べられています。明治45年(1912年)の発掘調査では、舟形の木棺が発見されました。木棺からは、銅鏡(変形四獣鏡・変形五獣鏡)や刀剣とともに、勾玉(まがたま)・管玉(くだたま)・棗玉(なつめだま)・臼玉(うすだま)などの玉類が大量に出土しました。これらの埴輪や副葬品から5世紀中頃の築造と考えられています。
 墳丘の周りには幅10メートルほどの濠が巡ります。仁徳天皇陵古墳(大山古墳)の濠と接するほど近くに築かれていることから、同古墳の陪塚(ばいちょう)と考えられています。
 収塚古墳
仁徳天皇陵古墳の前方部東南隅近くの同古墳の陪塚と考えられ、周濠が埋まり前方部も削られているため円墳のようですが、もともとは全長57.7m程の帆立貝形の前方後円墳で国の史跡に指定されています。
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の前方部東南隅の近くにある古墳で、同古墳の陪塚の一つと考えられます。周濠はすでに埋まり前方部も削られているため円墳のように見えますが、もともとは前方部を西に向けた全長57.7m程の帆立貝形の前方後円墳で、現在残っている後円部は径約42m、高さ約4.2mあります。墳頂部からはかつて短甲片が採集されています。古墳の東側の道路に周濠の跡を明示しています。
 仁徳天皇陵古墳
エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、南側の履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。葺石と埴輪があり埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、鹿、家などが出土しています。
昭和30年代と最近の調査で造出しから須恵器の甕が出土し、古墳が造られた年代を知る資料として話題になっています。明治5年(1872年)には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。出土品は再び埋め戻されたといわれていますが、詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようです。
日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚と考えられる古墳が10基以上あります。仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中天皇陵古墳よりも後で築造されたことがわかっています。
仁徳天皇陵古墳 模型 この日は天皇誕生日祝日です
堺の特産物 日本手ぬぐい 堺の刃物
銅亀山古墳 狐山古墳 竜佐山古墳 
 孫大夫山古墳  百舌鳥耳原由来の像  お昼のお食事は うどん
 グワショウ坊古墳  旗塚古墳  七観音古墳
 寺山南山古墳  履中天皇陵古墳  長塚古墳
【終わりに】
仁徳天皇の偉大さは周りを取り巻く古墳群の多さが物語っていると思いました。堺市は世界遺産と言う古墳群を守ることで町が栄え、市民が潤う神秘的な場所であると感じました。百舌鳥古墳ビジセンターで見た空撮映像でみる古墳群の雄大さが体感でき感動しました。堺市役所21階にある展望台がコロナで入場できなかったのが残念です。大仙公園は雄大な広さで公園の中に道路がはしり、信号もありで不思議な場所です。あまりの広さに迷子になってしまう一幕もありました。