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壺阪山駅~壷阪寺~五百羅漢~高取城址~猿石~城下町高取~壺阪山駅 11km |
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壺阪山駅から土佐街道を楽しみながら壷阪寺を目指します |
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鷹鞭橋あたりは車道を歩きます |
宮形大明神 |
車道を離れて |
谷川沿いの道を行きます |
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此処を登り切れば壷阪寺の境内です |
壷阪寺は 南に桜の名所吉野山を控え 北に万葉のふるさと大和三山奈良盆地を一望におさめる壷阪の山に建つ 真言宗の寺で 西国三十三所観音霊場の第六番札所となっています。
本尊十一面千手観世音菩薩は眼病に霊験あらたかな観音様 目の観音様として全国各地から毎日多くの参拝者が訪れているようです。
創建は寺蔵の『南法花寺古老伝』によると、大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んでまつったのが始まりといわれ 境内からは当時の藤原宮の時期の瓦が多数出土しており その後、元正天皇に奏じて御祈願寺となっています |
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壷阪寺から高取城跡へ向かいます |
壷阪寺の入り口から南方向に上がっていき上を走る車道と合流し 左に折れて車道を歩いていきます 左側に五百羅漢・高取城跡への分岐が見えますので道標に従います ここから道は細くなりますが 快適な道です |
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五百羅漢 |
その壷阪寺からすぐ上にある山の中には、五百羅漢と呼ばれるおびただしい数の仏が掘られた大きな石があり、そばには同じく石に掘られた金剛界と胎蔵界の曼荼羅があるなど、昔から信仰の場としても重要だったことが伺えます。 |
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五百羅漢からは五百羅漢遊歩道を辿り高取城跡へ向かいます |
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高取城本丸跡である。国の指定史跡である。二ノ丸から本丸へ向かう際に最初に現れるのが天守閣の袂になる。
2003年に本丸付近が整備され本丸周りを1周することが出来るようになった。
南から日のあたった石垣は真っ白である。当時は城下町側からも石垣と城壁が見えたそうである。次のような詩が残っている。
「 たつみ高取 雪かと見れば 雪じゃござらぬ 土佐の城 」
別名「芙蓉城」と呼ばれていた。春には桜、秋には紅葉と美しい景色である。本丸跡からは、南に吉野の山々が望める。
高取城建築の南北朝時代、建築にあたった越智氏が、吉野の豪族と畿内への接続拠点として重要視していたのが感じられる光景である。
本丸跡の一番高台になる天守跡である。
高取山の標高は583.3m。黒門跡から高低差390m。これを比高と呼んでいるが、高取城は日本一の比高を誇っており文字通り日本一の山城と言えるであろう。 |
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七曲がり坂は 曲がりくねった坂道で敵が攻めてくると坂道の樹や竹を切って攻撃を防いだと伝えられている。実際に7回曲がっているかは、微妙。
一升坂は 石材などの運搬に役夫は急坂と重荷の苦しさにへたってしまったので、米一升を加給して激励したという言い伝えからこの名が付いている。 |
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一升坂を下る |
猿 石 |
この猿石は、高取城を建築の際、石垣に転用するのに飛鳥から石材などとともに運ばれてきた物らしい。明日香檜隈の吉備姫王墓にある石像物と同類の物である。郭内と城内の境界を示す「結界石」とした説などがあるようです。 |
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岩屋不動への分岐 |
岩屋不動 |
お百度石 |
岩屋神社跡で明治維新までは岩屋不動と呼ばれ、往古は大峰参上の一行場と伝わっている。不動・文殊・役の小角の石像がある。 |
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一升坂から土佐街道への道 |
土佐街道を下り城下町高取に入ると 家老屋敷長屋門やお里沢市ゆかりの伊勢屋屋敷跡碑などがみられます |
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家老屋敷長屋門 |
お里沢市ゆかりの伊勢屋屋敷跡 |
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