2016 |
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トレーニングは中休み・神戸にある八社のお宮巡りウオーキング |
10:00 JR三ノ宮駅前スタート⇒ (4時間30分) ⇒JR 神戸駅ゴール 14時30分 |
芦屋から地獄谷六甲越え、有馬温泉の予定でしたがトレーニングの中休みとして、「神戸八社めぐり」と決めました。そろそろ本番の打ち合わせもしなければならず今回は「中休み&打ち合わせ日」としました。Junkoちゃんも一緒です。「神戸八社巡り」とは、神戸の旧市街地東部、三宮から神戸間には生田神社を中心にして「一宮」から「八宮」までの数字のついた神社があり、古来より各村落の鎮守の神として厄除けの信仰があったそうです。節分の日にこの八社を巡拝し厄を祓ったという風習が残り、現在でも年間を通じてご朱印を受け厄除八社巡拝をする方が多くいるとのこと。市バスや地下鉄で巡る方法もあるらしいのですが私達はトレーニングのため歩いて八社を巡ることにしました。 |
神戸の街並みは大阪と違いお洒落に感じます。お店の作りも商店街の中も自転車が横行する大阪とは違って品格があるように感じました。わずかな時間で生田神社に到着しました。(え~っ!ここって芸人と女優が結婚式を挙げてお別れなすった神社?)生田神社で八社巡りに行ってきますと報告をして、一宮神社を目指します。 |
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2016年5月3日午前11時7分ころ、神戸市中央区布引町4丁目に あるJR三ノ宮駅前のロータリー付近で、車が暴走し歩行者らに突っ込む事故を起こした白色のセダンタイプの車は、この像の台座に激突して停まったとのことです。 |
生田神社 祭神は稚日女尊 わかひるめのみこと |
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生田神社を囲むようにして八つの神社(一宮~八宮)があり、それらは生田裔神(えいしん)八社(生田神社の末えいの神社)呼ばれている。港神戸守護神、厄除け八社とも言われ数字の準に巡ることを八宮巡り(八社巡り)といい厄除けになるとされている。祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)。天照大神の幼名とも妹とも伝えられている。 西暦201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港にてお船が進まなくなり占ってもらったところ、稚日女尊が現れて生田の地に自分を祀るようにとのお告げがあったと日本書記に記されており、これが生田神社の始まりとされている。 |
一宮神社 祭神は田心姫命 たごりひめのみこと |
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福岡県宗像郡沖ノ島の宗像大社より勧請したといわれる。神功皇后が三韓からの帰途巡拝された一社で、生田裔神八社の一宮。創建年代は不詳、一説には4世紀ともいわれている北野村の鎮守社。元禄3年(1690年)の調書に「市の宮」とある。昭和22年(1947年)山口神社(奈良県大柳生村)の境内社戸隠神社を模して社殿を再建。
昭和30年(1955年)本殿再建。 |
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二宮神社 天忍穂耳尊 あめのおしほみみのみこと |
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二宮神社(にのみやじんじゃ)は兵庫県神戸市中央区二宮町にある神社。生田神社の八柱の裔神を祀った一宮から八宮までの神社(生田裔神八社)の中の二柱目に当たり、天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)ならびに応神天皇を祀っている。古い記録がなく、創設された時期については不明。伝承によれば、生田神社建立の際、神功皇后が現在の神戸市内の天皇家ゆかりの神々を祀る八社を巡拝したことにさかのぼるという。
境内には「稲荷神社」や「椋白龍社」(むくのきはくりゅうしゃ)が置かれている。なお、町名の「二宮町」はこの神社に由来する。正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやび・あめのおしほみみのみこと)。天照大御神の長男とされる。
境内社の稲荷神社は江戸時代末期、伏見稲荷大社から勧請。また椋白龍社(むくのきはくりゅうしゃ)は龍神やその同神とされる白蛇にまつわる逸話が数多く見受けられたことから、境内に「椋白龍社」として祀るようになった。 |
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商店街も小粋です |
途中で昼食だあ |
三宮神社到着 |
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まずは一宮と二宮、案外近くにありました。迷うことなく楽々クリアです。次なるは三宮神社。「三宮に行く前に昼飯にしよう」と中華屋に入り、ワンタンと焼き飯セットやラーメンと焼き飯セットと思い思いに注文しました。これで済むわけがありません。「ビール持ってきてっ!グラスは4つ」暑さで喉の渇きが頂点に達していたため美味しいのなんのって!しかしその後の八社巡りに異変が起きたのです。
ウッチー会長はガソリンを給油したかの如く快調で、後の3人は酔いが回りアップアップでやっとの思いで付いて行きました。「ウッチー会長は街では強いね。それに、さっき燃料注入したしね」神戸大丸近くに立派な三宮神社が見えてきました |
三宮神社 湍津姫命 たきつひめのみこと |
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三宮神社(さんのみやじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区三宮町に鎮座する神社。生田神社の八柱の裔神を祀った一宮から八宮までの神社(生田裔神八社)の中の三柱目に当たり、祭神としては湍津姫命(たきつひめのみこと)を祀っている。
当社は、周辺の「三宮」という地名の由来にもなっている。航海の安全と商工業の繁栄を守る神として、古くから一般の崇敬厚い神社。古い記録がなく、いつ創設されたかなどについては未詳。祭神は水の神である湍津姫命(たきつひめのみこと)。境内に「河原霊社」や「史蹟 神戸事件発生地碑」と当時の大砲が置かれている。
慶応4年(明治元年、1868年)には、三宮神社前において、岡山藩(備前藩)兵と外国兵の衝突が発生した。明治政府初の外交事件となったこれを、神戸事件あるいは、備前事件と呼ぶ。 |
三宮神社には神戸事件の由来が案内板に書いてありました。神戸事件とは1868年2月4日、神戸三宮神社前において備前藩の兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させたうえ、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件です。備前事件とも呼ばれています。この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展しましたが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見たと言う「おどろおどろ」した事件です。そして四宮へ。 |
四宮神社 市杵嶋姫命 いちきしまひめのみこと |
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四宮神社 (よのみやじんじゃ)は神戸市中央区中山手通に鎮座する神社で、生田裔神八社の1社。
神功皇后三韓征伐の帰途、生田神社の裔神八柱の神を8ヶ所に奉斎された内の一社で、四の御前神とも云う。
永禄10年(1567年)荒木村重が織田信長の命により花隈城を築くと、当社を鬼門鎮護の神として神宝幣帛を捧ぐ。
天正8年(1580年)7月2日、城代荒木村正が敵対すると、信長は怒って池田信輝に落城させた。この時の兵火で社殿悉くを焼失。
境内神社 八幡神社 誉田別尊 稲荷神社 三義稲荷大明神・武富稲荷大明神・白嶽稲荷大明神・巳神社 弁財天巳大神
弁財天芸能塚 「諸人よわが道つとめ花開らく恵みあたえん知恵と宝を」題字坂井時忠兵庫県知事筆 中尾一艸書 昭和60年4月建立。芸能関係者の崇敬が高い。 |
五宮神社 天穂日命 あめのほひのみこと |
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順調に進み次は五宮。ちょっと小さな神社です。五宮の社務所は締まっていて朱印が貰えないかと思っていましたがお賽銭箱の横に、ちゃんと朱印を置いてくれていました。五宮神社(ごのみやじんじゃ)は兵庫県神戸市兵庫区五宮町に鎮座する神社。生田裔神八社の一社。
出雲国能義郡天穂日神社よりこの地に勧請され、神功皇后が、三韓へ行かれた帰りに巡拝された一社とされる[1]。古来より奥平野の産土神。
江戸時代には寺社改めの時に、生田神社からは裔神八社の一つとして届け出ている。 明和の書上には氏神五ノ宮(幕府領の)境内二十八間に十二間、拝殿三間に二間、山神地神の小祠ありとある。奥平野には、生田神社奉斎の時に祭主を命じられた海上五十狭茅の家と伝えられる名家があり、明治4年(1872年)湊川神社の創建で、兵庫県より湊川神社氏子に指定された時も、生田神社との深い関係を嘆願して、旧来通りとなった。 |
六宮神社 天津彦根命 あまつひこねのみこと 八宮神社 熊野杼樟日命 くまのくすびのみこと (合祀) |
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資料によると、六宮と八宮が隣接していて、七宮はかなり離れています。七宮をゴールとして後回しにするか、順番どおり廻るかですが、そうこだわりもない我々は六宮、八宮と合理的に回りました。(六宮神社は八宮神社に合祀) 古い看板があり「六宮神社合祀」と書いてありました。 |
六宮神社は 八宮神社の境内(明治初期に道路拡張のため八宮神社に合祀)祭神は天津彦根命・応神天皇
八宮神社(はちのみやじんじゃ)は神戸市中央区楠町に鎮座し、生田裔神八社の六宮神社と八宮神社とが合祀された神社。
神功皇后三韓征伐の帰途、生田神社の裔神八柱の神を8か所に奉斎された内の2社で、坂本村の鎮守社。明治12年(1879年)10月村社に列す。
明治20年(1887年)最初の神戸市役所が新築されるため、八宮神社が現在地に移転。
明治42年(1909年)5月7日、楠高等小学校(現・湊翔楠中学校)新設により六宮神社が八宮神社に移転。
大正4年(1915年)10月30日、神饌幣帛共進社に指定される。
大正14年(1925年)9月29日、正遷宮。本殿北側に六宮神社、南側に八宮神社が鎮座している。
境内神社として白髭稲荷神社 白髭大神が祀られている |
湊川神社 祭神 楠木正成公 くすにきまさしげこう |
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楠木正成公(大楠公)は、永仁2年(1294年)、河内国赤坂水分(大阪府千早赤阪村)でお生まれになりました。この地の豪族の出身だと伝えられています。
元弘元年(1331年)正成公38歳の折、鎌倉幕府を倒して天皇自らが政治をとり、よりよい国をおつくりになろうとされた後醍醐天皇のお召しにより、天皇の許に馳せ参じられました。正成公はじめ鎌倉幕府打倒に立ち上がる武士も少なくありませんでしたが、幕府軍の力はなお侮(あなど)りがたく、後醍醐天皇は捕らえられて、隠岐島(おきのしま)(島根県)に配流になります。
しかし、後醍醐天皇が配流になった後もそれに臆(おく)せず、なお戦い続けた武将が.いました。それが正成公でした。河内国の千早城では、さんざん敵を悩ます戦を続けられました。
正成公の目覚ましい戦いぶりは、諸国の武士を驚かせ、勤王軍への加勢を促しました。ふがいない幕府軍を見て、北条氏率いる幕府軍の打倒に立ち上がった武士等の蜂起が各地に相次ぎ、やがて幕府軍が敗退し、建久3年(1192年)から続いた鎌倉幕府はとうとう滅亡してしまいます。 |
七宮神社 大己貴尊 おおなむちのみこと |
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残るは七宮です。七宮は新開地の海寄りでかなり遠くに感じました。 |
七宮神社(しちのみやじんじゃ)は神戸市兵庫区七宮町に鎮座する神社。生田裔神八社の一社。
「白藤家記録」に七宮神社は「延喜式」の八部郡汶売神社とある。主祭神である大己貴命は、大国主命、大物主神、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顧国王神の七つの御名を称えて七宮神社という。神功皇后三韓征伐凱旋の時、大国主神を山の尾の波打ち際に奉斎。また、会下山方面の山麓に衆落を作っていた時代に、北風家が祀つた神が兵庫に移ったともいわれる。
●八つの社にはそれぞれ天照大神とスサノオノミコトが剣玉を交換して生まれた三柱の女神と五柱の男神がまつられています。 |
私達はウッチー会長に金魚の糞状態で付いて行き無事八社めぐり成就です。時間は午後2時です。記念撮影を済ませJR神戸駅まで歩きました。ゴールの乾杯をするために駅近くのお店に入り聖岳・光岳の打ち合わせもしっかりと済ませました。荷物は12キロが快調に登れる重量であること、超過しても13キロで止めておくこと、食材は限りなく軽くすることなどを話し合いました。小屋食が利用できるかどうかは七月の山開きをした後に確認をすることとしました。あと質問事項が発生すればその都度話し合うこととしてJR、阪神電車、神戸地下鉄とそれぞれお別れとなりました。 |
「夏トレ・LESSON-5 で感じた事」 |
中休みとしたはずでしたが、山よりきついっ!アスファルトの道を16㎞歩き、23,523歩を歩きました。ドエライ中休みで長距離歩きとなりました。山の中を歩くのと違いアスファルト道なので、膝は痛いし、信号で止まると、歩くリズムが狂ってしまいます。今回は神戸の街を知るための歴史ウオークと思えば貴重な体験でした。三宮が何故三宮なのか一宮から八宮まで歩いてよく理解できました。本番の打ち合わせもしっかりとすることができました。 |
姫の感想 |
ほぼ、本番に向けての準備が整いつつあります。パーティを組んだり、山岳会等での山行は、テント泊する場合は「食事担当」が居て、万事準備と割り振りをしてくれるのですが今回は個人、個人が集まり、行動を共にするスタイルのため、それぞれが食事の用意をしなければなりません。私は山の上での食事は飢え死にしなければ何でも良いと思っています。 |
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