「北海道・でっかいどう ぐるっと廻って5058qの旅」
7月24日(木)
羅臼岳は、北海道・知床半島にある火山群の主峰及び最高峰で標高です。古くはアイヌ語でチャチャヌプリ、また良牛岳と記されたこともあります。1964年知床国立公園に指定され、2005年にはこの山域を含む知床半島が知床 (世界遺産)に正式登録されました。約500年前まで火山活動を続けていた活火山であり、1964年には下流の羅臼町で100回を超える群発地震や間欠泉の噴出を観測しているそうです。また知床富士とも呼ばれていて、「羅臼湖畔から仰ぐ羅臼岳」の知床国立公園の10円切手が発売されたこともあるそうです。頂上に着いたら「知床旅情」歌いたいと思います。
すっかり天気も回復し午前4時に出発です。休養も充分に取りました。この日は快適に標準時間と差のない登山をすることができました。
時刻  地    名 距離
04:00 岩尾別温泉(木下小屋)
04:41 オホーツク展望
05:37 弥三吉水
06:44 銀冷水
08:00 木下弥三吉レリーフ
09:30 羅臼岳頂上  
10:00
10:52 木下弥三吉レリーフ
11:41 銀冷水
12:33 弥三吉水 
13:25 オホーツク展望
14:00 岩尾別温泉(木下小屋)
      
13:17 岩尾別温泉(木下小屋) 2291km
17:07 斜里岳麓。清岳荘 2367km
木下小屋をでてオホーツク海が見渡せると言うオホーツク展望までは世界的に珍しいユズリ葉の群落。急な坂を登りきった位置にあるオホーツク展望からは北海道ならではの景色も堪能できました。海も野も草原も目に入るすべてが「でっかいどう」なのです。
 
仙人峠 大沢の入り口
 大沢雪渓
 羅臼平から見た羅臼岳
昭和初期の知床登山
知床登山の先駆けは誰だったのか? 意外なことに、最初に登頂を果たしたのは、岳人ではなく、鉱物の採取や調査、 あるいは三角点設置のため登られたという記録が最も古い。硫黄山は、明治期 にアメリカの地質学者ライマンが登頂、その他の山も測量者によって次々と登 られていったとされる。 知床の山々が岳人たちに注目されるようになったのは、昭和初期からである。 そしてその時期、最も偉大な足跡を残した岳人が、斜里町側の羅臼岳登山道 (岩尾別コ−ス)の「木下小屋」や「弥三吉水」として、 今もその名を残す木下弥三吉である。 木下は、昭和2年に北海道大学に入学し、山岳部で活躍した人。学生時代に 羅臼岳、硫黄山、知床岳、海別岳などの頂を踏み、知床の山の魅力にとりつ かれた木下は、網走で家業の製材工場を営みながら、網走山岳会を結成し、 初代会長になった。昭和27年には、知床で初の登山道開削に取り組み、岩 尾別コ−スを整備した。現在その功績をたたえ「限りなく知床を愛し、惜し みなくこれを頒ちあたえた木下弥三吉君」という石碑が羅臼平に建てられている。 一方、羅臼町側からの羅臼岳登山道(羅臼コ−ス)を開削したのは、後に羅臼山岳 会を結成し、初代会長になった西井誠誘である。西井は、羅臼町にある、誠諦寺と いう寺の2代目住職であり、日々羅臼岳を見上げながら育った人。 昭和14年、道なき羅臼岳を沢づたいに登頂したのを契機に、その後、28年、現 在の尾根コ−スの開削を始めた。西井は木下と違い、アルピニズムを追及するタイ プの岳人ではなかったといわれる。むしろ、知床登山の訪れた人を快く歓待する「 世話人」として有名だった。ことに大学山岳部などの学生たちを、誠諦寺本堂に無 償で泊め、「知床の山をめざす人で、西井誠誘を知らないのはモグリ」といわれ るほど、若者たちから慈父のように慕われた。次から記す「知床大探検時代」を 背後で支えた多大の功労者でもあった。  (知床倶楽部の記事より引用)
木下弥三郎翁のレリーフ           ヒグマの襲撃を避けるために食料品はテント場から離れたフードボックスへ入れます
途中で500mほどの長さの雪渓が残っていましたがきちんとキックステップを踏みアイゼンを装着することなく通過。羅臼平に到着。此処には木下小屋の創設者「木下弥三吉」さんのレリーフがあり、しばらく休憩をとりました。
休憩後の急登り1時間はつらかったですが不思議と疲労の積み重ねはなく毎日新鮮に登れているから不思議です。羅臼岳にはヒグマか300頭生息しており、熊鈴、笛、ラジオなど人間の存在を知らせる物が必要だと管理人さんから教えてもらいました。私は姪っ子の息子が修学旅行の土産に買ってきてくれた錫杖の鈴の音が透き通るように美しく繊細な音を奏でてくれヒグマから守ってもらいました。
登山者の中には錫杖の鈴を手に取って「どこで購入されましたか?」と言う人もいました。

木下弥三郎翁のレリーフ 
 羅臼平から羅臼岳を目指します  岩清水を飲んでパワーアップ
羅臼岳の頂上です 
 頂上標識の前で豪快に笑う姫  三角点見っけ
 羅臼岳頂上直下の登山道
羅臼平と三ッ峰
下山道から見た硫黄岳 オッカバケ岳 サシルイ岳
木下小屋の直ぐ上に群生している「ユズリ葉」は登山道の両端に群生しているというか、群落の中を登山道が通っており学術的にも珍しいようです
同じ道を下って小屋に戻ると熊が出たと大騒ぎになっておりました。関係者が駆けつけて空砲を鳴らし山の中に帰したそうです。下山後も入浴させてもらえて汗を流して清々しい気分で次の斜里岳登山口にある清岳荘に向けて木下小屋を後にしました。

斜里岳への移動は2時間ほどで到着し焼失後に建て替えられたと思われる新築の清岳荘も自炊小屋で1泊2000円と登山者には有り難い使用料金となっていました。大きな部屋が廊下を挟んで2室あり片方は先客があり、もう片方を使わせてもらうことにしました。荷物をおくとテラスに出て夕食の準備です。「ろくな物を食ってないなぁ〜」と言われましたがスーパーで支払う金額は1万円札が羽を付けたように見事に飛んで行ってしまいます。(笑)
斜里岳登山口・清岳荘への移動
 斜里岳への移動は2時間ほどで到着し焼失後に建て替えられたと思われる新築の清岳荘も自炊小屋で1泊2000円と登山者には有り難い使用料金となっていました。大きな部屋が廊下を挟んで2室あり片方は先客があり、もう片方を使わせてもらうことにしました。荷物をおくとテラスに出て夕食の準備です。「ろくな物を食ってないなぁ〜」と言われましたがスーパーで支払う金額は1万円札が羽を付けたように見事に飛んで行ってしまいます。(笑)

羅臼登山のあと、岩尾別から知床半島の付け根に鎮座する斜里岳登山口にある清岳荘に向かいました。北の大地に悠然と裾野を広げる斜里岳の美しさは、もっと知られても良いと思っています。標高670mにある清岳荘から歩き始め、3時間余で山頂に到着です。たまには楽ちんコースがあっても良さそうです。独立峰特有の強風に吹き飛ばされないように、360度の眺めは、早々のご褒美でしょうか。古くはアイヌ語でオンネヌプリといったそうです。シャリとはアイヌ語で「葦の生えた湿原」の意味。南斜里岳、西峰からなる。 オホーツク富士、斜里富士とも呼ばれています。
写真:JON  文:美智子姫