槍ヶ岳から北穂高岳・奥穂高岳・馬ノ背・ジャンダルム・天狗岳を越えて西穂高岳へ…日本一急峻な登山道に挑む!
久保公一
去年8月始め高校の同期会登山で西穂独標へ登った。そのとき登山の会10周年を区切りとして来年を最後に槍ヶ岳へ登ろうということが決まった。同年9月にやまたび倶楽部で槍ヶ岳へ登ったがあいにくガスにまかれ頂上では何も見えなかった。しかし槍への行程やどれくらいのきつさの登山かをメモするよい機会となった。
同期会ではやまたび倶楽部でのやり方を真似て槍を目指す者を対象に4回にわたってトレーニング登山をほぼ同じルートで実施した。いよいよ今年8月7日朝に大阪を出発し横尾まで進み、翌日槍の肩から頂上を往復し槍ヶ岳山荘へ宿泊、9日下山後徳沢でハイキング組みと合流して宴会という日程が決まると槍から下りてしまうのが急に惜しくなった。いつもの盆休みを少し前倒しすれば穂高への縦走ができるのではと思ったから。ネットでいろいろ調べたり、JONさんに大キレットやジャンダルム越えについて尋ねたりして南岳で一泊すれば体力的にまた技術的にも縦走は可能だと結論を得た。それに10年を区切りとして登山は槍が最後と言うのも「誰かがもっと続けよう」と言うに決まっていて、今年が同期山仲間の最後の集まりになるとは半信半疑だった。最後ではないかもしれない宴会のために下山すると、もう一度槍まで登り返して縦走を始めるのは体力的にも日程的にも無理がある。年齢を考えるとこれが最後の縦走のチャンスかもしれないという思いが勝って、わがままは承知の上でキャプテンに槍西穂縦走を申し出た次第である。この会ではいつもメンバーが全員車に分乗して大阪と東京から目的地を目指す。今回も私の車は既に予定に組み込まれていたのでこれは沢渡に置き放し、帰路は往路の同乗者に任せ私と妻は新穂高温泉から平湯へ出、高山経由で名古屋から新幹線を使うことにした。

  8月7日(木) 大阪~上高地~明神 
 7:30 桃山台で同乗者二人を拾い、沢渡へ向かった。途中、慧と満奈から電話でハッピバースディトゥーユーと歌で誕生日を祝ってもらった。数回の休憩や高山で昼食をはさんだりしたが申し合わせたように東京組とほぼ同時刻に到着した。バスで上高地へ向かう予定が「上高地まで4000円」と言う運転手の呼び声に14名は3台のタクシーへ分乗することになった。計画当初は横尾まで入る予定だったがここは今山荘改築中で徳沢も季節柄、大人数の団体は予約を断られて初日は明神館宿泊となった。2日目の槍ヶ岳山荘も殺生ヒュッテの食事がよいとの情報でこれも変更になっていた。上高地から明神までは1時間、普段ならここは休憩地で名物の冷やしリンゴをかじる所だ。今回はここで時間が余るため奥の明神池を見に行く事になった。昔、上高地は神の降りたる地、明神池は神池又はかがみ池と呼ばれ、この辺り一帯が神域であったと言う。池の前に立つとまさにかがみ池、明神岳が見事に映し出され、透明な水中には岩魚が泳いでいる。宿の主人の話では穂高とはもとは明神岳のことを指し、その前にあるのが前穂高、奥にあるのが奥穂高ということであった。
       
 

8月8日(金) 明神~徳沢~横尾~槍沢~ババ平~大曲~殺生ヒュッテ 
6:00朝日を受ける明神岳を左に見て皆の脚は順調に進む。徳沢、横尾で小休止、一の俣では右に常念岳を見上げた。この谷の川は常念岳を水源にしている。この辺りまで来ると梓川の水はますます澄んで瀬落ちの部分のライトスカイブルーが美しい。続いてすぐに二の俣、これは大天井岳が水源。
槍沢ロッジで早めの昼食と給水、「ここから槍の穂先が見えます」と札を下げたバードウオッチング用の望遠鏡がセットされていた。覗くと頂上に人が見える。ババ平のテン場を目指して歩くと右に特徴的な赤い岩がゴツゴツと聳えるのが目立つ、赤沢山だ。やがて緑のひだの奥を縦に剥ぎ取って茶色の溝が浮き出たような東鎌尾根が眼前に横たわる。大曲を過ぎると大喰、中岳を頂点とするカールの緑に点在する雪渓と既に木が生えて丘のようになったモレーンが目を奪う。まさに大自然の造詣だ。午後1時、天狗原分岐から後ろを振り返ると西岳、その奥に小さく大天井岳が見える。槍の穂先で会うことになっている姫たちはもうここを通過しただろうか。N氏がここから天狗池、氷河公園、南岳へと別コースをとり、一行は13名。手を振って別れ、少し上ると天狗原へと雪渓を渡る目印が弓の的のように置かれているのがよく見えた。その向こうにジグザグに緑の中を灰色の線が上がっていくように描かれている。
2:55「あっ、猿や猿」顔を上げると右の雪渓を猿が下って行く。
「まだ居る、居る。ほら1,2,3、・・7匹や」
「いやいや小猿を背負ったのがまだついてくるで10匹はいてるわ」

皆でお花畑に上る猿の群れを見送った。
この辺りから傾斜がきつくなり歩行の技術、体力の差が明確になってくる。荷物が重い、腰が痛いと嘆く者、突き出た腹が波打ち、肩で息を吸う者、顔の血の気が引いてしまった者、最後まで行けるのか心配になって最後尾のグループについて歩いた。殺生ヒュッテへの分かれ道に到着、こんなに小屋が近くに見えたらもう放っておいても大丈夫と先を急いで小屋を見上げたら、なんとテラスでN氏がビールを飲んでいる。「南岳へ行ったんとちゃうん?」「雪渓、どこを渡るんか分れへんかってん。なんや歩いてたらここに着いた」登山暦13年の彼にしてこうだ。我々には彼の行くべき道ははっきりと見えていたのに。山で最もポピュラーなトラブルの一つが道迷い、しかし地図とコンパスはお守りだと覚悟を決めたがよい。これを使いこなせる者はそもそも道迷いなどしない。普通迷ったあげく、どの方向に歩けば尾根道に出られるか程度の役にしか立たないのだ。山の中に入ってしまうと山全体を見渡すことは出来ない。自分がいる位置が把握できていて地図に載っている目標物が視界に入る場合、又は離れた二つの明らかな目標が確認できるとき地図とコンパスは確かに役に立つ。しかし山の中で迷った時、こんな幸運にめぐり合ったとしたらもうすでに迷ってはいないのだ。だからN氏はビールが飲めた。
殺生ヒュッテの夕飯は普通の山小屋と変わらなかった。ただうららの眼力によると朝食の炒り卵とキャベツの千切りはどう見ても小屋での手作りだった。その目で見れば昨夕の塩鯖も小屋で焼いたのだろうか。これが「殺生ヒュッテのメシは良い」の根拠なのだろう。部屋は2階が天井なしの吹き抜けで真ん中の廊下を挟んで高く2段に仕切ってある。布団は広々と使えた。

 8月9日(土) 殺生ヒュッテ~槍ヶ岳山荘~大槍~槍ヶ岳山荘~大喰岳~中岳~南岳~南岳小屋 
6:00 槍ヶ岳山荘経由でいよいよ槍ヶ岳へ。特に女性陣が岩をうまくよじ登れるか、下を見て目がくらまないかと心配してロープやカラビナ、シュリンゲを用意したがこれは思い過ごしだった。少なくとも見た目には楽しんでいる。ただ頂上で女性の一人が振り向きざまにバランスを崩しあわやという時、瞬時に2本の手が伸びてズボンとザックを捕まえて事なきを得たのにはヒヤッとした。一本の手はもちろんサスケ。
7:03北鎌でビバーグしたはずの姫一行にトランシーバーで呼びかけてみた。「こちらサスケ、感度ありますか?あれば応答願いまーす」何の音沙汰もない、まだ電波の届かない所にいると言う事だ。いったん皆と一緒に肩まで下りて12名の槍沢への下山を見送った。
8:20うららを下へ残して再び穂先へ上り、何回か交信を試みたが反応なし。30分ほどしてガガッと受信機が震えた。「こちらサスケ感度ありますか?」「ハイ良く聞こえます。オカモトです。只今独標をトラバース中。ガガー」すぐに祠の横まで行って北鎌尾根を見下ろした。くねくねとした尾根をたどると大きな三角錐の山、かなり上まで緑が張り付いている、これが多分独標だろう。と言う事は姫たちがトラバースしてくるのが見えるかもしれないと目を凝らす。「誰か来るの?」と登山者が二人そばへ寄ってきた。六つの目で人影を追ったがやはり見えない。
20分ほどして「サスケ、先生聞こえますか」今度は姫の声「私達が見えますか?」「何か振って」「もうヤッケを振ってまーす」登山者に「見えます?」「いいや」「只今穂先にいまーす。手を振ってまーす。見えますか」「見えませーン」すぐ近くに独標は見えるのに、距離がかなりあるのか。いや距離があっても目立つヤッケを振るのが見えないはずは無い。独標はこの巨大な三角錐の向こうに隠れているに違いない。
9:45 JONさんの声で「ガガー、槍へはまだ2時間以上かかる模様」今見えている独標と思っている所からは30分、ぜいぜいかかっても1時間だ。「では先に行きまーす」と肩へ下りた。
槍ヶ岳山荘では朝パンを焼いている。まだ残っているかとうららに食堂へ入るよう促したら「もう売り切れてるて」「何で分かる」「カップうどん食べたもん」「俺も何か食べよ」本当にパンは一かけらも残っていなかった。その後も「ええっ、売り切れ?楽しみにしてここまで登って来たのに」とぼやくオバサンが2人。行動食が残り少ないのでカレーを食べておく事にした。レトルトの味と技術が進んでいるので下で食べるのと全く変りなく美味しい、山小屋の昼はカレーに限る。
       
       
   
 
 
 10:31 大喰へ向けて歩き出す。たいした傾斜でもなく足場もよいのになぜか息が切れる、早朝から2度も穂先を往復したからか。名残惜しく何度も槍を振り返りながら昨日泊まった殺生ヒュッテを見下ろした。中岳の下りにかかる頃、急に雲が湧きゴロゴロと雷が遠くで鳴り出し、岩がぽつぽつと濡れ始めた。用途別に荷物を小分けして底辺が同じ大きさになる袋に詰めてあるのでリュックの底でも雨具を取り出すのに苦労はなかった。中岳を下りたところで雪渓からチョロチョロと流れ出る水が冷たくてたまらなく甘い、いや甘く感じる。ぬるいペットボトルの水を全部捨てて詰め替えた。
南岳へ向かう途中天狗原へ降りる分岐がある。N氏が行こうとした槍沢から天狗原へは幾つもの雪渓を越え、秋には氷河公園の辺りはすばらしい紅葉が見れると言う。天狗池には槍ヶ岳が逆さに映る。その後横尾尾根を直登しコル出て尾根伝いにこの分岐に至る。一度はここへと登らねばならないコースだ。南岳はなだらかで少し下ったらもう山小屋だ。大キレットの向こうに北穂高小屋を見上げてうららが「まるで投げ入れ堂みたい」、なるほどあんな所にあんな小屋よう建てたなというのが第一印象だ。
下りがもうすぐ終わる頃「うららさーん」「あ、横川さんとミマッチや」「着いたよー」二人の出迎えを受けた。小屋入り口の石段の下で「おこじょ」が出たとキャンプの人たちが集まっており、お二人も見たと言うので、暫く前に立っていたがおこじょよりビールと中へ入った。部屋は登山客で一杯、布団一枚に枕が二つ。あくる朝うららの言「わたし壁へ押し付けられて寝たような気がせえへんわ」
 
       

 8月10日(日) 南岳小屋~大キレット~長谷川ピーク~飛騨泣き~北穂高小屋~北穂高岳~涸沢岳~穂高岳山荘
5:50南岳小屋を4人で出発。すぐに大キレットが覗き込める。まあ急な下りだがなんということもなさそうだ。降り口の看板の後ろに猪の頭のような岩があって思わずシャッターを切った。なんとなく大キレットは切れ込んだ坂を下ると平坦な広場になっていて又急な坂を上り返すというイメージを持っていた。難所で有名な長谷川ピークさえキレット北の上方から遠望すると緑の木々が張り付いた東斜面しか見えず、たいしたピークには見えない。北穂へ上る岸壁も傾斜は緩そうだ。どの部分が飛騨泣きなのかも良く分からない。と、ここまでは下りるまでの観察、実際足を踏み入れるとガラガラの岩を思わず崩し落しそうな急斜面が続き、下に着いても底に広場なんてどこにもない。峻険な尾根の飛騨側岩稜帯をくねくね上ったり下ったりしながら歩き、やがて長谷川ピーク、飛騨泣きへと続くのだ。取り付けばなるほどここが長谷川ピークかと自然に分かる。通り過ぎて南から眺めると長さの違う長方柱の岩を60度の角度で凸凹に立体的に並べたようだ。長谷川ピークを降りるとA沢のコル(8:03)ここから又、道は飛騨側をなたでたたき割ったような稜線すぐ下の岩場を進む、ここが飛騨泣きと言われる核心部。右手に滝谷の鋭く薄い岩壁が扉を90度開いたようにそそり立っている。北穂高北面に達しこれを登っている時、うららが右隣の沢で大きな落石の音を聞いた。暫くして下から登ってくる男性が「下で落石の事故があったようです」と教えてくれた。少しの時間差で被害は我々に及んだかもしれない。怪我をした人はヘルメットをしていただろうか。
 
 
     
   
  きつい登りをハアハアと登りきったらいきなり北穂高小屋のテラスへ着いた。ここから横川さん美馬さん二人は涸沢ヒュッテへ向かった。ここのテラスはゆったりと実に気持ちが良くドリップした本物のコーヒーが鼻をくすぐる。ラーメンも生麺使用、売店の女の子や食道の男の子の愛想がとてもいい。次回はぜひここへ泊まろう。うららがテラスから通信すると姫と繋がった。北鎌組が追いつくのをゆっくり待つことにして生ビールとラーメンをうららは山菜うどんをオーダーした。食べ終わってしばらく登山者ウオッチングをしていると、上ってくる3人をうららが「見つけた」しかし最後を登る背の高い男が帽子を被り明らかにポチさんではないので「あれは違うで」「いや絶対間違いない、前の二人あれは姫とJONさんのヘルメットや」結局うららが正しく、ポチさんは親戚に不幸があったとかで北鎌には来ていなかったのだ。
北穂高から下りたらすぐ穂高岳山荘だと思い込んでいたサスケは「JONさん、後は下りたらええだけやね、さっき下を覗いたら小屋が見えたわ」「・・・」歩きながら登りになるので「えーっ、登るのん?」「サスケちゃんが見たんは涸沢とちゃう。まだ南峰と涸沢岳を越えやなあかんのでっせ」北穂に南峰と北峰があるのを始めて知った。「あっちゃービール飲んでもたがな」一度切れた闘志は回復不能だ。鎖があちこちに付いている涸沢岳をふうふう言いながら登って下ってやっとの事で穂高岳山荘に着いた。ここも布団一枚に枕二つは変わらず。いずれの山小屋もトイレは大と小を別々に収容する仕組みになっており、小は浄化槽で処理し大はヘリで吊り上げて下へ下ろす仕組みだ。紙は焼却。汗をかくからかサスケは歩く途中で小をもよおすこともなく、トイレでもしょぼしょぼと出るだけ。 
       
       
 

 8月11日(月) 穂高岳山荘~奥穂高岳~馬ノ背~ジャンダルム~天狗のコル~天狗岳~間ノ岳~西穂高岳~独標~西穂山荘

4:36 4人で穂高岳山荘を出発。馬の背手前でうららとザイルで繋ぐ。間隔は10m。両面が切り立ったナイフリッジと呼ばれる稜線のきわを落ちてもロープがひっかかって止められるような岩を見つけてそれにロープをかけながら進んで行く。「よしロープOK進んで、ハイもうすぐロープいっぱい、足場がええとこで止まって岩にロープかけて」を繰り返すのだ。しかしいつもそんな都合のいい岩がいつもあるとは限らず、ただ繋いでいるだけ、落ちなば諸共と言う区間も勿論出てくる。進んだ距離の割には時間が経ちすぎる「このまま行くと西穂高山荘には日のあるうちに着けるかどうかですな」JON さん達は4:30最終のロープーウェイに乗るつもりと聞いていたので「西穂で泊まりますからお先へ」。ぐんぐん離されてしまった。難所ロバの耳を経てジャンダルムを巻いて進んだ時には10mでは足らず肩へかけた予備の輪を繰り出して進んだ。ジャンダルムを通り過ぎた所で上から姫が下りてきた。「うわっ、これのぼったん?」 姫は笑いで答えたが「北鎌をやってきたんやもん」と顔が言っていた。それから又二人との差はどんどん開きサスケとうららとは他の何人にも追い抜かれながらマイペースを守った。

筋肉はATPをエネルギーにして動き、これの動かし方には3通りがある。筋肉中に蓄えられたATPを酸素なしで一気に使うと大きな瞬発力が出る。高い段差を手を使ってうんと踏ん張って上りきる動作がこれだ。しかしこれは一瞬でATPを使い切ってしまうため何回も続けてそんな段差は上れない。次が筋肉中に蓄えられたブドウ糖を酸素なしで代謝してATPを作りながら力を出す方法だ。100m走や駅の階段を一気に駆け上がる時がこの方式を使っている。かなり大きな力をだせるが乳酸が蓄積するためまもなく筋肉は疲労してだるくなって動かなくなる。最後は有酸素運動だ。酸素を取り入れながら血液中のブドウ糖を取り込み脂肪を分解して両方を燃やしてATPを造りながら使っていくと言うやり方だ。たいした力は出ないが乳酸を作ることがなく、理論上は体内に脂肪のある限り糖さえ補給できれば筋肉は動く。実際の運動は三つが合わさって行われるため時間が経てばやはり乳酸が溜まって疲労は起こるのだが。シャリバテという言葉があるがこれは三つめの方式で糖の補給が上手く行かない状態を表している。脂肪を燃やすのにはほぼ同量の炭水化物が必要なのだが体内に蓄えられている脂肪は多いのにブドウ糖は意外に少ない。ブドウ糖のもとになる炭水化物はこまめに補給しなければならない。JONさんと姫はこの三方式の組み合わせが上手かもともとあるいは訓練によってATPの産生能力がサスケうららよりも高まっているのだ。人の能力が羨ましかったら訓練を重ねるしかない、しかし今は訓練ではなく実践中なのだ。自分のATP産生能力でできる範囲のことを精一杯するしかない。
そんなこんなでジャンダルム3163mを巻き終わったのが7:45、ここから新穂高ロープーウェイが下りていくのが見えた。天狗の頭へかかる少し手前でヘリが峰スレスレに目の前を飛び越しおそらく岳沢の南斜面をかすめるように急降下して梓川の向こうで消えた。ローターの先に塗られたペンキが描く円が下にぐんぐん小さくなって行く。うららが「カメラカメラ」と叫んだがサスケは「うわぁ~」とその見事な操縦に見とれてしまっていた。下に荷物を網でぶら下げている。天狗の頭から岳沢を経て梓川を越えた所は地図で直線を引くと丁度上高地バスセンターになる。この辺りに物資輸送用のヘリポートがあるに違いない。暫くしてヘリが消えた辺りから再び横尾方面へ今度は小さくヘリが飛んだ。飛騨側からガスがどんどん吹き上げてくる。11:09天狗の頭、12:02間天のコル、間ノ岳(あいのだけ)はどれ?と思ううちに岩にペンキでかすかに読み取れる「間ノ岳」のへたくそな文字が目に入った。知らぬ間に間ノ岳頂上へ上っていたのだ。
いつのまにかここもガスに包まれている。下りて前方にガスに煙るピークが見えた「あれが西穂?」「いやあんなに小さくはないはずや」又登って降りる。何回か繰り返して「ええ加減にしてほしいな」。
3:10「あっ、雷鳥や」「どこどこ?」「あんな大きなんが見えへんの、ほら雛も居る」カメラを向けたときは雛は姿を隠してしまっていた。出てくるのを待つわけにもいかない、時間がもったいないのだ。やがてガスの中に岩ばかりで聳え立つどっしりとした大きなピークが見え、頂上に柱が立っている。「これが西穂やな、あと2時間や。いや登りの時間入れやなあかんな」これを越えてやっとロープを解いた。その後もピークが連続、幾つめかの頂上に立ったとき独標が見えた。4:20「ここはピラミッドピークやな、電話するわ」携帯を開くとアンテナが3本立っている。「予約してある久保ですが奥穂から来て今ピラミッドピークです。着くのは遅くなると思いますが必ず行き着きますから」「気を付けてお越しください。でも夕食の時間が過ぎると一般の品を注文してもらうことになります」「ラーメンとか?」「そうです」「それで結構、今から向かいます」
独標頂上から少し下ったところに去年同期の女性達のためにロープをかけたピンが二つ並んでいた。過去に使った物を見るとなんとなく安心感が増す。後はだらだら下りだけだ。「見て、ずっと谷に木が茂ってるわ。なんか安心するなあ」、土が流れるのを防ぐ長い横木の階段を何段も下りて山荘に着いたのは午後6時10分であった。当然夕食の時刻過ぎていた。やっとの思いで着いたのに不思議に達成感は無い。後から沸いて来るものなのだろうか。しかしもし次にここへ来たときには・・という自信が心の中で揺らぎの無いものになっていることは確かだ。

 余  禄

大阪へ帰ってあらためて足を見るとまるで像の足のようにむくんでいた。体重は64.4Kg、出発するときより400g増えている。山小屋では粗食、行動中にも大したものは食べていない。飲んだビールも高が知れている。このむくみ、体内に溜まった水のせいだろう。小便の回数も量も減っている。うららも同じだ。
むくむと言う現象は心臓のポンプ力が弱って毛細血管の血液が心臓に戻りにくくなって血液中の水分がにじみ出たままになって起こる場合と腎臓の機能が落ちて尿を作る量が減ってしまった場合に起こる。あれほどの登山を二人で成し遂げたのだから心臓のポンプ力云々は問題外。二人とも腎臓の機能が衰えているのだ。
運動をする、筋肉を収縮させるためのATPや炭水化物、脂肪のことは本文に書いた。登山では10Kgの荷物をしょって8時間行動すれば体重にもよるが4500~6000Kclが消費される。フルマラソンのカロリー消費量が約2000Kclだからどれほど過酷な運動か分かるだろう。窒素平衡という言葉がある。通常は摂取するタンパク質に含まれる窒素の量と尿中に排泄される窒素化合物に含まれる窒素量は±0で平衡が保たれている。病院のベッド上での安静時にでも1日あたり93.75g、これほどの運動をすると250gのタンパク質を摂取してこれが代謝されて始めて体内の窒素平衡が保たれる。運動にはブドウ糖や脂肪の他にも壊れた筋繊維の補修や酵素の消費などヤンパク質も必須なのだ。毎日登山を続けて山小屋の食事で1日250gのタンパク質を補給できただろうか。摂取不能のときは当然窒素平衡は-に傾く。こんな時体は自分の筋肉を壊して得たタンパク質を代謝に使う。激しい運動時には摂取したタンパク質であれ自分の身を削ったタンパク質であれ250gを代謝して、普段より格段に多い体にとっては毒となる窒素化合物が生成される。腎臓はこれをどんどん排泄しなければならない。これが何日も続くと腎臓はへとへとになって尿を作る力が弱まってしまう。一方、坂を登る喉の渇きで毎日2ℓ近い水を飲む。体に水が取り残されるのは当然だ。この項を書き上げた17日になってやっと足のむくみがとれた。体重を量ったら62.5Kg、1.9Kgの水が溜まっていたと言うことだ。

体がこんな目に遭って、谷底を覗いて怖い思いをしてなぜサスケは山へ登るのだろう。ここまでやると健康によいはずがないのに。これは12日に帰って来て以来ずっと思っていた、いや縦走の最中にもさんざん考えていたことだ。答えは出ないがサスケは深山や、深い木立の森に入ると何とはなしに神秘的なものを感じる。町の喧騒、人と人とのふれあいで張りを失ってしまう精神はこんな神秘をもともと求めるようにできている気がする。神秘に触れることで精神は蘇るのだ。これを宗教に求める人がいる、海に求める人もいる、もっと俗な見方をすればパチンコや競馬などのギャンブルに精神のリフレッシュを求める人もいる、サスケはそれを山に求める。
 写真は「ぎゃらりぃ~」に掲載していますのでご覧ください

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