紀伊山地の霊場と参詣道:熊野古道 大辺地 9 大辺路の打ち上げ串本観光 2018.05.08

 
 
 ●大辺路3回目の3日目 : 5月8日(火) 雨
串本観光  無量寺:長澤芦雪 筆 「 虎 図 」
大辺路の打ち上げパーティは大阪からポッチーも合流して三味や太鼓こそありませんでしたが盛大に行われました。
最終日は串本観光と決めました。滅多にない贅沢な山行です。交通手段は事前に観光タクシーを予約しました。ホテルから橋杭岩と大島巡りをして串本駅まで帰ってくるコースです。串本に来たらぜひ訪れたいのが橋杭岩です。潮の満ち引き加減で違った顔を見せてくれます。大島に向かって一直線に巨岩が連立する景勝「橋杭岩」は一見の価値があります。普段は海の中に立ち並ぶ岩に近づく事はできませんが、潮が引いていればそそり立つ橋杭岩の近くまで歩いて行くことができます。この日はあいにくの雨模様でながめるだけとなりました。それでも美しい!次なるは♪ここは串本向かいは大島仲をとりもつ巡航船…♪で有名な大島へと参ります。
▲くしもと大橋  ▲大島地区  ▲大島港灯台
大江戸温泉物語・南紀串本の部屋から見た大島西部の港です。仲をとりもつ巡航船は本土側の串本港からこの間を航行していたのでしょうね。だからこんなに立派な灯台があるんですね。
串本節でも唄われた大島港は、昔から船の避難港として大変栄えました。近年になっては、島の玄関口として、巡航船、フェリーが行き来しました。その大島港も、くしもと大橋の開通に伴い、静けさを取り戻し、フェリーと巡航船は、その役目を終わり姿を消してしまいました。巡航船は大正元年8月、串本地方初めての機械船が島にやってきました。その名は乙姫丸と言い、米国製の5馬力電気着火エンジンを備え、3、4トンだったでしょうか。 乗客定員8名ぐらいで船代は片道4、5銭だったようで、この白い乙姫丸は、船足も速く20分で串本へ渡ったそうです。 「巡航船」の名も、この頃登場したのだと言います。大島を訪れて驚いたのはトルコの建物や史跡が多く残っていることでした。
▲ホテルの展望ブースで ▲ホテルのロビーで
橋杭岩(はしぐいいわ)は、串本町にある奇岩群。同町の大字鬮野川(くじのかわ)小字橋杭の海岸から紀伊大島方面へ大小約40の岩が南西一列におよそ850メートルもの長きにわたって連続してそそり立っている。直線上に岩が立ち並ぶ姿が橋の杭のように見えることから橋杭岩と呼ばれている。また干潮時には岩の列中ほどに附属する弁天島まで歩いて渡ることができる。
吉野熊野国立公園に属しており、国の名勝や国の天然記念物の指定も受け観光名所となっている。また橋杭岩を通して見る朝日はとても美しいと評判で日本の朝日百選の認定も受けている。
昔弘法大師が天の邪鬼と串本から沖合いの島まで橋をかけることが出来るか否かの賭けを行った。弘法大師が橋の杭をほとんど作り終えたところで天の邪鬼はこのままでは賭けに負けてしまうと思い、ニワトリの鳴きまねをして弘法大師にもう朝が来たと勘違いさせた。弘法大師は諦めて作りかけでその場を去った。そのため橋の杭のみが残ったという伝説もあります。
▲ 橋杭岩
『エルトゥールル号遭難事件』
1890年9月16日21時ごろ台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし沈没。600名以上が海へ投げ出されました。樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついたそうです。灯台守は応急手当を行なったが、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦である事を知りました。通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することが出来た。その一方で残る587名は死亡または行方不明となり、大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長に伝えられた。その後付近を航行中だった船に、大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡のため神戸港に向かった。神戸港に停泊中だったドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸に搬送、病院に収容された。村長は県を通じて日本政府に通報。知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示。日本政府とトルコ共和国政府は正式に国交を結んだ。 
樫野埼灯台旧官舎 ▽国登録有形文化財
紀伊大島の東端に位置する樫野埼灯台の旧官舎。樫野埼灯台と旧官舎は、イギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、明治3年(1870年)に建設されました。
ブラントンは、明治元年(1868年)に来日し同9年に帰英するまでに、日本各地の灯台やその付属施設の建設を多く手がけましたが、樫野埼はその最初期のものです。
灯台は昭和29年に大規模な改築が実施されましたが、官舎は当初の形態を比較的よく残しています。石造平屋建、寄棟造<よせむねづくり>、建築面積162㎡。  
▲樫野埼灯台旧官舎 ▽国登録有形文化財
樫野埼灯台
大島の東端、樫野の断崖に日本最古の石造り灯台が今も活躍しています。現在は自動点灯の無人灯台で内部は非公開であるが、ラセン階段を登り、遠くは太地町の梶取崎まで見通せる。また、園地内にはかつて常駐していたイギリス人技師が故郷を思い植えたと言われる水仙が今も群生しており、冬には可憐な花が咲き乱れ、あたりは甘い香りに包まれます。(高さ10.20m、光度53万カンデラ、光達距離18.5海里)
 ▲樫野埼灯台
▲潮岬観光
次なる観光地は最南端にある潮岬灯台を案内してもらいました。樫野崎灯台の印象があまりにも強く潮岬灯台は遠くから「見るだけ」にして周囲の鯨の潮吹きが見られるという先端まで行き散策を楽しみました。
▲潮岬灯台 
▲潮岬の鯨山見
▲錦江山 「 無量寺 」 本堂
最後は日本一小さな美術館として知られる無量寺に行きました。湿気を嫌う美術品は雨の日は閉館しているのです、この日も看板は「閉館」となっていました。人の気配を感じたのか学芸員さんが出てきて「今なら小降りだから大丈夫!早くしてください!」と言われ、円山応挙や長沢芦雪が描いた国の重要文化財を見ることができました。
禅寺である錦江山無量寺は串本の町の狭い通りの一角にあります。境内にある「応挙芦雪館(おうきょろせつかん)」には円山応挙(まるやまおうきょ)、長沢芦雪(ながさわろせつ)の作品を中心に、室町、桃山、江戸時代の絵画96点を展示しています。収蔵庫に収められている国の重要文化財の襖絵はガラスケースに収められているのでは無いので、お天気の悪い湿度の高い日には見ることができません。この無量寺は、もともとは、現在地から少し離れた袋という小さな入り江の地区にあり、その地形故にたびたび津波の被害にあいましたが、宝永4年(1707年)10月の宝永地震による大津波で全壊・流失してしまいました。その後、流出した無量寺の再建の使命を帯びた臨済宗白隠下の禅僧、文保愚海和尚が入院(じゅいん)し、大津波より79年後の天明6年(1786)、辛苦の末、現在の位置に本堂再建の業を果たされました。
円山応挙や長沢芦雪が描いた国の重要文化財は厳重な湿度管理された蔵の中に収蔵されていますが、拝観者と作品の間にはアクリル板やガラスなどの遮蔽物はまったく無く本物の良さを肌で感じることができました。また本堂の襖として最新の技術でデジタル再生画が使われていますのでご覧下さいと学芸員さんの案内で本堂を拝観させていただきました。上欄の写真は本堂で撮影したものです。junkoちゃんはここを訪れるのが長年の夢だったようで熱心に見ていました。
全ての行程を終えて、雨の中、串本駅まで歩き、電車で紀伊田辺まで移動。紀伊田辺から高速バスで戻ってきました。これで終わりかと思うと一抹の寂しさを感じました。
1年がかりの長い山行にも関わらず、大きなトラブルも事故もなく「熊野古道中辺路」「熊野古道大辺路」を完歩出来たことに心から感謝を申し上げます。仲間あったればこその楽しい楽しい山行でした。

次回への希望
雨と増水でやむなく途中でコース変更しましたが熊野古道大辺路は制覇したということで紅葉の時期に古座の一枚岩に行って見たいと思っています。
出来れば橋杭岩を歩いてみたいね。夕日も眺めてみたいね。勿論宿は旅館「やまさき屋」だわ。
旅の感想文
 ●ひ め
観光タクシーで盛りだくさんの串本観光が出来て有意義な時間でした。橋杭岩に落ちる夕日も見てみたい気がします。大島にトルコ記念館があったのには驚きました。灯台の灯りを求めて沈没したトルコの乗組員たちが助けを求めに来たという樫野崎灯台も価値がありました。トルコの物産展ではトルコに敬意を表してなのか、思わず自分用の土産のバックと帽子を購入しました。地元でお金を使うことも協力なのかなと(単なる無駄遣い?)
最南端にある潮岬灯台も良かったです。帰り際に立ち寄った無量寺では国宝である襖絵も見物することができました。
山行も観光も打ち上げも全て良しで「めでたし、めでたし」
 ●ポッチーの感想
滅多にない「串本片道一人旅」でした。みなさんが一生懸命歩いているころ私は特急「くろしお」に乗り一足お先にホテルへ到着です。予約が取りにくいと悩んでいただけのことはあり豪華なホテルでした。翌日の串本観光も、あの名高い大島がここか?とちょっと感動しました。登らなくて良い山行があればまた参加させてください。楽しい時間をありがとうございました。秋までに体力をつけて古座の一枚岩参加したいです。
 ●JON
この日は「応挙芦雪館(おうきょろせつかん)」を拝観できたことが最高の思い出となりました。またここの学芸員さんは「古座街道やどやの会」「大辺路刈り開き隊」のメンバーでもあるらしく、「大辺路の地蔵峠ルートは雨の日は歩行が大変であること」や、「ここ取材に来たテレビ撮影クルーが大変苦労をされたこと」、また「古座街道は一部崩落の箇所があるので行かれるときは修復状況を確認されるほう良いでしょう」、とアドバイスをしてくださいました。とても良い旅の思い出です。
 文:美智子姫 
 
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は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう