中世の巨大寺院・三宝寺の痕跡を所々で辿りながら、難波一州の名奇とまで言われた瑞光寺の雪鯨橋、景清 の涙池伝承、瑞松寺のたぬきくすりに至るまで、話に事欠かない小松・瑞光のまちを巡ります。
小  松
元和・寛永の頃(1615~1644)、屏風屋勘左 衛門という豪農が小松の地を数十町歩開墾 し、村の大半が勘左衛門の支配地となりまし た。勘左衛門は贅沢を尽くし、やがて身を滅ぼ してしまいましたが、一時は現在専念寺にある 木造大日如来坐像を邸内に安置する程の力を 保持していたそうです。寛永20年(1643)、 大道村は西大道・南大道・北大道に分村し、小 松は大道新家村に属しました。大道新家村は 明治元年(1868)に小松村と改称しました。明 治9年(1876)時点で小松村の村民戸数は76 戸であったと記録されています。
大日房能忍と三宝寺 文治年間(1185~1190)に大日房能忍(だい にちぼうのうにん)が建立した三宝寺は、七堂 伽藍四十八房を備えた巨刹と伝えられ、寺域 は現東淀川区内の広範囲に及んでいます。能 忍は平安末期から鎌倉初期にかけての禅僧 で、達磨宗(近世になり通称として日本達磨宗 と呼ばれました)の祖です。後に日蓮が法然と ともに批判の対象とし、また、比叡山からの依 頼を受けた朝廷が栄西とともに能忍の禅宗宣 揚活動を停止する宣旨を下す程、活発な布教 活動を行っていました。能忍没後、三宝寺の宗 派は応仁年間(1467~1469)まで存続し、 16世紀半ばに辺りが戦場となったため寺が廃 絶したと言われています。その後の集落は三 宝寺村となり、現在、三宝寺の名は町内会名で のみ残っています。また、東淀川区内の地名・ 大道(だいどう)は、三宝寺の大道がかつて縦 横に通じていたことに因んで付けられたと伝 えられています。
小松公園
上中島区画整理記念碑 上中島は明治22年(1889)の市制・町村制の施行によって誕生した豊里 村(菅原・三番・橋寺・天王寺庄)、大道村(西大道・南大道・北大道)、中島村 (江口・小松)、新庄村(上新庄・下新庄)を指します。上中島のうち、小松・江 口・北大道・西大道・上新庄の5か町にわたる土地区画整理が昭和4年 (1929)に着手され、完成を記念して昭和6年(1931)に当時の大阪市 長・關一の名で区画整理記念碑が建立されました。碑文には、「都市ノ相 貌」を決定する主な要素は「都市ノ建築物」であり、「都市ノ建築物」を醜 悪に見せず、「都市ノ相貌」の品位を保つためには、区画整理を行い宅地と しての利用増進を図ることが必要であるという、關一市長の考えが記さ れています。 平成29年、老朽化のため撤去されたようです。
 景清と涙池 藤原忠清の七男・藤原景清は平家の武将であり、別名・悪七兵衛と呼ばれる人物です。源平が争った屋島 の戦い(1185)において、源氏方の武将の兜の錣を素手で掴んで引きちぎった「錣引(しころびき)」伝説 が有名です。古典芸能にも数多く取り上げられ、国内に数多くの景清伝説が残っています。景清は源氏と の戦いに敗れ、伯父の大日房能忍の禅寺・三宝寺の宝蔵に匿われました。能忍は空腹の景清に蕎麦を馳 走しようと考え、「景清に蕎麦を打て」と寺男に命じたところ、景清は伯父が自分を裏切り、「景清を討て」 と言ったと聞き違え、能忍を殺害してしまいました。後で自らの勘違いに気づいた景清は、涙に咽びなが ら、血のついた刀を洗い、池の水を伯父の霊に供えて弔ったという伝承が小松に残っています。現在、小 松公園内に池はありませんが、昭和初期の地図を見ると、公園が設置される場所に涙ヶ池と記載されて います。涙池は別名・村正池と呼ばれ、周囲が約65メートルの池であったそうです。
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 松山神社
菅原道真を祭神とし、道真の没後、村民が祠を建立し、村の氏神 と崇めたことが神社の始まりと伝えられています。道真が淀川 を下って大宰府に配流される際、この付近に数千株の小松が生 い茂る景観に感動して詠んだ漢詩「小松経幾日不変舊青々本是 山中…」から、「小松」を取り、明治4年(1871)に松山神社と改称するまで小松天満宮と称していました。明治42年(1909)に は大隅神社に合祀されたものの、境内地、鳥居、灯籠などはその まま置かれ、昭和19年(1944)に大隅神社より分離独立し、社殿、拝殿や社務所などが新たに建立されました。
瑞松寺
 天正9年(1581)、明道によって創 建されました。明道は楠木正成の 末裔・正澄で、本願寺で顕如の弟子 となり明道と改名しました。瑞松寺 の山号・涙池山(るちざん)は、景清 の涙池伝承に由来しています。昭 和の初め頃まで、腫物一切に効く、 瑞松寺一子相伝・狸の吸い出し薬 を販売していたそうです。
旧   家
専念寺
天満の泉念寺第三世・諦譽雲渓が小松村に隠遁し、修法の 霊場としたことが始まりで、寛永20年(1643)の創建で す。寺には、このあたりにあった大寺院・三宝寺大日院の本 尊であると伝えられる木造大日如来坐像、これまた三宝寺 の旧仏と言われる木造十一面観音菩薩立像、恵心僧都の 作と言われる専念寺の本尊・木造阿弥陀如来坐像が残さ れ、何れも大阪市指定文化財に登録されています。
  瑞光寺
寛永20年(1643)に臨済宗の天然が旧三宝寺の白 砂の地に松を植え、庵を結んで観世音を祀ったこと が始まりで、白隠禅師を座主に招き、指月寺と称しま した。二世・北禅和尚が三番村(現東淀川区豊里)に あった三宝寺の瑞光院を移し、享保14年(1729)に 指月寺を瑞光寺と改称しました。その際、開基者・天 然の名に因んで山号を天然山としました。
上右 この骨は第5代目の鯨橋の欄干部分です。扇骨(肩甲骨)と言います。この骨は第5代目の鯨橋の欄干部分です。第6代目の鯨橋は2004年北太平洋の北海道沖の調査捕鯨で捕獲されたイワシクジラの下アゴ骨と扇骨を2005年南極海で捕獲された黒ミンククジラの脊椎を利用してます。
雪鯨橋
 宝暦6年(1756)、瑞光寺の潭住知忍禅師が、古式捕鯨発祥の地である南紀・太地浦に立ち寄った際、鯨の不漁に悩 んでいた漁民から豊漁祈願の依頼を受けました。殺生を好まなかった潭住知忍禅師は困り果てた揚句、最終的に漁民の依頼を聞き入れて豊漁祈願したところ、たくさんの鯨を捕獲することができました。漁師たちはお礼の意味で瑞 光寺に黄金30両と鯨骨18本を送りました。潭住知忍禅師は、これらの鯨骨で橋を作り、鯨の冥福を祈ったとされま す。橋は鯨の骨の白さから雪鯨橋と名付けられました。江戸時代に「難波一州の名奇」と評された雪鯨橋は古くは橋板にも鯨の骨を使っていたそうですが、安永9年(1780)に橋板が石造となりました。昭和20年(1945)に戦災で 焼失した後は29年間、雪鯨橋は途絶え、昭和49年(1974)に5代目の雪鯨橋が架けられました。現在の橋は、平成 18年(2006)に架け替えられた6代目のもので、丸2年間、地中で脂抜きされたイワシクジラやミンククジラ3頭の 骨の一部が欄干などに使われています。雪鯨橋は平成21年度大阪市指定文化財(指定民俗文化財)に選ばれました。
今回はこの瑞光寺がゴールとなります。ここからスタートの阪急電車京都線の上新庄駅までは10分くらいです
 
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 美智子  
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質
をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう