長柄界隈は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の旧址という伝説があり、古代から栄えて国分寺も置かれました。陸運の亀岡街道、水運の淀川とも面し、江戸時代は数多くの旅人が行き交いました。太平10年(中国年号。1030年)在銘の朝鮮銅鐘を有している鶴満寺や、謎の由緒を持つ鶯塚、義人・松野登十郎の墓から、人柱伝説で有名な長柄橋まで、知られざる長柄物語をどうぞ。
亀岡街道 起点は高麗橋で、大阪天満宮の西から北へ上がり、長柄から吹田、亀岡へ向かいます。かつては荷馬や旅人の往来で賑わいました。現在の天神橋筋商店街はこの街道に沿って発展しました。江戸時代は街道東側の寺町を挟んで与力町、同心町が設けられ、東町・西町両奉行所の役人の居住地でした。
淀 川 大阪の「母なる川」として大阪の歴史、文化、風土を育んできました。その反面、「暴れ川」として知られ、洪水のたびに沿岸に大きな被害をもたらしました。古くから瀬戸内海~淀川~琵琶湖を結び、人や物資を運んだ重要な交通路で、沿岸には船宿が発達して賑わいましたが、明治以降は鉄道の発達や道路整備が進み、水運は衰退していきました。現在の淀川は飲料水、工業用水の水源として利用されています。
国分寺
 斉明天皇が弟の孝徳天皇の菩提を祈るために、斉明天皇5年 (659)、僧・道昭に命じて長柄豊碕宮旧址に一宇を建立して「長 柄寺」と称したのが始まりといいます。天平13年(741)に聖 武天皇によって「一国一寺」の国分寺創建の詔が公布されると 「摂津之国国分寺」(金光明四天王護国之寺)となりました。当 時は国分寺は僧20人、国分尼寺は尼僧10人を置き、国庁と並 んで、その国最大の建築物であるのが常でした(大和国の東大 寺、法華寺は全国の国分寺、国分尼寺の総本山です)。大坂夏の 陣や大阪大空襲の戦災に遭い、現在の昭和金堂は昭和40年 (1965)に落慶されたものです。
 南長柄八幡宮
長柄は近世から明治初期にかけては北長柄村と南長柄村とに分かれていて、当宮は南長柄の氏神です。明治末までは現在の鶴満寺公園にあったと伝えられています。公園東側は現在は団 地ですが、以前はここに土堤があり、そこを境に東側は国分寺 村領でした。本来は長柄砂州の北部東岸(水上交通の要所)に あって、川に向かって拝む神社だったと推測されています。
淀川天神社
国分寺村の氏神です。江戸中期発行の『浪華往古図』にも記載 され、石碑には天平10年(738)、行基が訪れた際に開拓の守 護神として天穂日命を祀って「天神社」と称したとあります。現 在の神殿(瓦葺流造)は明治43年(1910)に中島村(東淀川 区)の社殿を買い受けたもので、享保年間(1716~1736)の 建築と推測されています。他にも明和(1764~1772)寛政 (1789~1801)期の石燈籠や文化8年(1811)の石狛犬な どがあります。
鶴満寺(かくまんじ)
 奈良時代に大和で創建され、宝暦3年(1753)に当時の豪商・上田宗右衛門の発願によって現在 地に移転してきたといいます。桜の名所で有名でしたが、明治18年(1885)の淀川大洪水で枯 死しています。鶴満寺の釣鐘は太平10年(中国年号。1030年)在銘の朝鮮銅鐘で、高麗時代初 期の名品として国指定の重要文化財です。渡来の経緯は不明ですが、長州藩の土木工事中に発 見され、寄進されました。他にも鎌倉時代末の作という千手観音画像(大阪府有形文化財)があり ます。上方落語「鶴満寺」の舞台としても有名です。
鶯 塚
貞享3年(1686)在銘の五輪塔があります。かつては墳丘だったと考えられてい ますが、誰のものかは不明です。地元では「長柄の長者の娘が死んで、鶯が悲しみ の余りに後を追うように死んだので塚を作った」「孝徳天皇の女官の鶯式部の墓と して作られた」「元旦になると鶯が必ず当地に来て春を告げた事から名づけられ た」といった伝説があります。
長柄八幡宮
永仁4年(1296)に石清水八幡宮から勧請して祀られ、慶長15年 (1610)に片桐且元が本殿・幣殿・拝殿を改築したといいます。境内備 えつけの専用の櫓で奉納される地車囃子は、「長柄流」「キタの流派」 の祖といわれ、大坂城完成を祝って奉納したさいは、秀吉が大いに喜 んだといいます。夏祭では獅子舞が出ますが、昼間は氏地を廻り、夜間 は摂州地車囃子奉納にあわせて、傘踊りをしながら境内を練り歩きま す。
光明寺
永正14年(1517) に蓮如上人の直弟子の蓮師が建立したと伝わって います。親の仇を討った後に無常を悟って仏門に入ったという菅公一門 の末裔・菅九郎左衛門が2代目住職を継承したので「九郎左衛門道場」 といわれ、その後、無碍光山光明寺となりました。境内に義人・松野登十 郎の墓があります。安永6年(1777)江戸に生まれた松野登十郎は父 祖代々、田安家に仕えていましたが、文政3年(1820)、南長柄の田安 家領地代官を命じられました。ところが翌年、南長柄一帯が大飢饉とな り、農民の苦境を見かねた登十郎は、田安家に使者を送って年貢の軽減 を願い出ます。しかし田安家からは拒絶され、登十郎は上申書を残して 代官屋敷で割腹しました。享年48歳でしたが、「死に臨みて容儀端厳、 一糸一毫たりとも乱れず」と古書に記載されています。その後、松野家 は取潰しになりますが、年貢は3年間免除され、領民は救済されました。
  慰霊観音像  毛馬長柄堤の桜
  慰霊観音像
旧長柄橋の橋脚に「旧長柄橋弾痕」という銘板がはめられています。 昭和20年(1945)の空襲で爆撃から逃れようと大勢の人々が橋下 に避難しましたが、その橋に爆弾が落とされて落橋。さらに機銃掃射 が浴びせられ、なんの罪もない一般市民約400人が殺されました。 その弾痕が第3、第4橋脚に残っています。 
長柄橋
氾濫する旧淀川の人柱になった長柄長者の悲話が伝わり、長者の娘が 歌った「物いわじ 父は長柄の 人柱 鳴かずば雉も 射られざらまし」はつ とに有名です。『日本後紀』によると弘仁3年(812)に造橋使が派遣され て長柄橋の工事が行われたと記載されています。しかし仁寿3年(853) には橋は廃絶しており、渡船が設けられました。「難波なる ながらの橋も つくるなり 今は我身を 何にたとへん」(いせ)「あしまより みゆるながら の 橋ばしら 昔の跡の しるべなりけり」(藤原清忠)「春の日の ながらの 濱に 船とめて いつれか橋と とへど答へぬ」(惠慶法師)など、数々の和 歌が伝わっています。現在の長柄橋は、昭和58年(1983)に完成したも のですが、近代的なアーチが千年の時の流れを感じさせます。 
天神橋筋商店街
1丁目から7丁目まで約2.6キロ、南北に続く「日本一長い商店街」で す。歴史は古く、平安時代に出来た大阪天満宮の門前市がルーツとい います。1丁目から2丁目は今でも門前町の雰囲気を残し、3丁目、4 丁目は下町情緒が溢れ、5丁目から7丁目は新旧の店で活気にあふ れています。吉本興業発祥の地でもあり、大阪の芸能文化にも多大 な影響を与えました。
 
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 美智子  
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質
をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう