摂津国と河内国の国境となっていた街道を下りながら、寝屋川や、今では道 路となってしまった井路川の歴史を辿りつつ、放出(はなてん)地名由来の 伝承が残る、式内社・阿遅速雄(あぢはやお)神社までを歩きます。 
大阪地下鉄 今福鶴見駅から鶴見通りを東へ進んでいきます。道路の北側にイオンモール鶴見緑地を見て次に出てくる横堤一の交差点を右折南下します。
▲剱街道の碑
つるぎかいどう碑 剣畷(つるぎなわて)と称される古代からの堤は、剣街道または放出道と呼ばれ、北は千林付 近から放出を通り、南は深江まで南北に伸びています。かつては摂津と河内の国境であり、現 在は大阪市と守口市・東大阪市を隔てる市境の道です。剣街道という名称は、阿遅速雄神社 (別名:八剣神社)の参詣道であったからという説があります。また、「つるぎ」は「つるみ(鶴 見)」地名に転じたとも言われています。
▲鶴見神社と境内の鶴見の由来
鶴見 平安末期に、近江国・下阪本村比叡辻の農民17人がこの付近を開拓し、郷里の村名から辻村 と名付けました。現在の旭区にあった上辻村に対して下の辻村と呼び、下辻村が正式名称と なりました。大正14年(1925)に大阪府東成郡・榎本村が大阪市に編入された際、下辻は鶴 見に名称変更されました。地名「鶴見」には次の伝承があります。源頼朝が富士の巻狩りを行 った時、千羽の鶴に金の短冊を付けて放しました。この鶴が村の東の葭島に飛んできて住み 着き、毎日、西へ飛んで行きました。短冊がきらきら光って美しく、たくさんの人が見物にや ってきたので、地名が「鶴見」になったというものです。
▲旧街道の風情を残す中高野街道の町並み
▲椿本チエインまで飛んだ石
 今から200年程前に大峰講の有志によって持ち帰られた石と伝えられています。米軍による大阪 空襲時、風圧で椿本チエイン(このコースの出発地点、現イオンモール鶴見リーファ付近)があっ た場所まで吹き飛ばされたことから、地元では椿本チエインまで飛んだ石と言われます。高さ4メ ートルの大石は、付近の住民が担いで現在地まで戻しました。
▲寝屋川改修記念碑 ▲旧街道の風情を残す中高野街道の町並み
この近くに三保ヶ関部屋・大阪場所宿舎があったのだが
大横綱 北の湖や親子二代大関らを擁し、昭和後期の相撲界に君臨。戦後数年間の出羽海部屋預かりを経て復活した、大阪相撲時代から名高い伝統の部屋である。しかし後継者不在のため惜しまれながらその歴史に終止符が打たれた。 そのため平成30年の大阪場所に力士幟が揚がることはなかった。
▲旧街道の風情を残す家 ▲街道沿いのお地蔵様
▲正因寺 ▲中高野街道顕彰碑 ▲六郷修堤碑
中高野街道顕彰碑
剣街道は、京都や大阪から高野山参詣の人たちが多く通 ったため、中高野街道とも呼ばれました。この付近には 付け替え前の大和川が流れており、「放手の渡し」があり ました。街道を通る人たちは、川を越えるためにこの渡 しを利用しました。現在も旧街道の風情を残す町並みの 中に顕彰碑は建てられています。
六郷修堤碑
正因寺(1515年創建)に大橋房太郎が眠っています。墓 前には大橋房太郎が淀川、寝屋川改修とともに尽力した 六郷井路(六郷川)修堤の碑が建っています。六郷井路 は大和川付け替え後、宝永年間(1704~1711)に徳庵 川(寝屋川の前身)の南に並行して掘られたものです。六 郷堤は低く薄いために度々決壊しました。水害に悩まさ れていた住民を救済するため、明治20年(1887)に大 橋房太郎は大阪府に請願決議書を提出しました。その後 も請願を重ねた結果、明治25年(1892)から明治29 年(1896)にかけて堤の改修工事が行われ、住民はよう やく枕を高くして眠ることができるようになりました。六 郷井路は、大正11年(1922)からの寝屋川改修工事に よって寝屋川との中仕切りの堤防が撤去され、寝屋川と 一つの河川となり消滅しました。大橋房太郎は、大正6年 (1917)の大正大洪水後の大正8年(1919)に、自らが 中心となって淀川左岸水害予防組合を創設し、地域の水 害対策に尽力しました。
 
 ▲中高野街道沿いの家
▲阿遅速雄神社
阿遅速雄神社 平安時代に記された『延喜式』に掲載された式内社の一 つです。天智7年(668)に新羅の僧・道行が熱田神宮よ り草薙の剣を盗み出したものの、難波津にて大嵐に遭っ て今の放出付近に漂着しました。神の恐れを感じた道行 は剣を放り出して逃げ出しました。これが地名・放出(は なてん)の由来にもなっています。剣は無事、阿遅速雄神 社にて保管され、後に熱田神宮に戻されたと伝えられて います。境内には、大阪市内で唯一残るお蔭燈籠、天然記 念物の楠があり、江戸時代に、式内社であったことが証 明された「阿遅速雄社」の社号標石が建っています。
▲お蔭と灯籠と大樟の木
 
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう