富光寺(ふっこうじ)   
『雨月物語』や『春雨物語』で知られる上田秋成と加島のまちは深い関わりがあり、コースでは加島の歴史に 触れるとともに、香具波志神社から遊女塚まで、秋成の人生や作品を語る際に切り離すことのできないス ポットを巡ります。 
加島
延暦4年(785)に桓武天皇が摂津大夫・和気清麻呂に命じた三国川(神崎川)の開削が行われて以来、加島の地は、神崎・江口とともに、 西国から長岡京・平安京への河川交通の要衝として賑わいを見せ、また、遊女の里として「天下第一の楽地」と評されるほど繁昌しまし た。加島の地は平安時代頃から交易や物資集散の要衝地となり、商業活動が盛んに行われました。賀島荘内に美六市(みろくいち)とい う定期市が置かれましたが、これは摂津国で市の置かれた最も早い例の一つであると言われています。『摂津名所図会』には、かつては 「加島鍛冶千軒」と言われる程、鍛冶職人が集住していたことが記されており、農具や兵具が評判であったようです。加島に銭座が設け られたのも、鍛冶職人の技術が必要とされたからであると思われます。
JR東西線 加島駅の駅前広場の北側から東へ進み新幹線の高架下で旧街道筋に入り北へ進みます
▲街道沿いに今も残る旧家のおもむき
▲定秀寺
旧街道筋を道なりに進んでいくと右手に香具波志神社があります
 ▲香具波志神社
 香具波志神社 創建は天徳3年(959)と言われ、江戸時代まで稲荷大明神や加島 神社などと呼ばれてきました。江戸時代の氏子地域は、加島・三津 屋・今里・野中・堀上・新在家村に及んでいたそうです。平安から鎌倉 時代にかけては連歌殿があり、連歌会が盛んに催されたとされま す。境内には楠木正成の三男・楠木正儀が戦勝祈願した際に愛馬を 繋いだ「駒繋ぎの楠」や、織田信長登場以前に数年間京を支配した戦 国大名・三好長慶が寄進した朱木大鳥居の沓石2個が残されていま す。万延元年(1860)に社殿は灰儘に帰し、文久3年(1863)に復 興しました。現在の社殿は阪神大震災後、建て直されたものです。
   ▲上田秋成 寓居跡・加島鋳銭所跡  
上田秋成
上田秋成は、享保19年(1734)に曽根崎村で生まれ、元文2年 (1737)に紙油商・嶋屋を営んでいた上田茂助の養子となりまし た。幼くして病に罹った秋成を不憫に思った茂助は加島稲荷(香具 波志神社)に祈願し、秋成は68歳までの存命を告げられます。秋 成は以後、加島稲荷に参詣を続け、68歳になった年、加島稲荷に 68首の和歌帖を奉納しました。茂助から継いだ嶋屋が火災に遭っ て破産した秋成は、加島稲荷の神職方に寄寓し、3年間加島で暮ら しました。怪異譚『雨月物語』を上梓した後、左眼に次いで右眼も失 明した秋成ですが、その後も『春雨物語』を世に出すなど、現在にま で読み継がれる名作を残して文化6年(1809)にこの世を去りま した。加島には上田秋成の墓石が安置されています。
加島鋳銭所跡
徳川幕府は、国内の銅生産増大を背景に、寛永13年(1636)に寛永通宝 という統一銭貨を鋳造し始め、金・銀に銭を加えた三貨制度を確立しまし た。近江坂本や江戸を皮切りに全国に数十か所の銭座が開設され、加島 には国内銅生産が減少する元文3年(1738)に町人請負方式で銭座が 設けられました。元文3年は上田秋成が加島稲荷から68歳までの存命を 告げられた年でもあり、秋成の幼少の記憶に銭座が残っていたことでし ょう。元文4年(1739)からは銑鉄製の銑銭(ずくせん)も鋳造し、銭座は 延享2年(1745)まで加島の地にありました。「酒は灘、銭は加島」と称賛 される程、加島では高品質な銭貨が鋳造されていました。
 香具波志神社から少し北へ進むとすぐにT字路です ここを左折して西へ 次の道を右折して北上すると毛斯倫橋(もすりんばし)
▲毛斯倫橋(もすりんばし)
毛斯倫(もすりん)は羊毛を用いた織物で、ヨーロッパから輸入していましたが、羊毛輸入関税が撤廃された明治29年 (1896)に、大阪では毛斯倫紡織株式会社が設立されました。日本毛織に次ぐ日本第2の毛斯倫会社であった毛斯倫紡織 は大正12年(1923)に加島の対岸である園田村・戸之内に工場を設立し、本社と工場を結ぶ毛斯倫橋を建設しました。後 に鐘紡が戸之内工場を引き継いだ後、戦時中は日本国際航空工業の航空機用発動機製造工場となりましたが、昭和20年 (1945)に空襲により工場は焼失しました。
 毛斯倫橋(もすりんばし) から再び戻り突き当りを右折して少し行くと右手に富光寺(ふっこうじ)があります
▲富光寺(ふっこうじ)
楠木正儀が佐々木秀詮と一戦を交えた際に本陣を置き、不動明王に戦勝祈願したとされます。ま た、三好長慶が三津屋城を拠点としていた頃、富光寺も支配していた関係から、富光寺の山号・長 慶山は三好長慶の名から取られています。法然上人が讃岐配流時に富光寺に一泊し、法話を聞か せたとも言われています。富光寺には丈六の阿弥陀如来像が本尊として安置されています。
 富光寺(ふっこうじ)から西へ進み 山陽新幹線の高架を過ぎたころY字路を左にとって進んでいくと突き当りの道が十三筋です
 十三筋を西へ進んでいくと神崎川にかかる神崎橋を渡ります
▲ 神崎橋
神崎橋は南北朝の戦いによって正平 17年(1362)に焼け落ち、大正13年 (1924)に再び橋が架けられるまでは 神崎の渡しがありました。『摂津名所図 会』には、かつて神崎川に掬上橋(ゆり あげばし)という橋が架かり、宮城ら5 人の遊女が入水した際に屍が掬い上げ られたことが記されており、その橋は おそらく神崎橋ではないかと言われて います。現在の橋は、ジェーン台風で流 失した後に再建されたものです。
▲神崎川を跨ぐ東海道新幹線の橋梁
神崎川の西詰から右岸を北上して行くと左側に金毘羅さんの石灯籠があります
▲金毘羅さんの石灯籠
金毘羅さんの石灯籠から少し行き 山陽新幹線の高架に沿って左折していくと神崎遊女塚があります
▲神崎遊女塚
  承元元年(1207)法然が讃岐に配流 された際、遊女・宮城が小船に棹さして法然の乗る船に近付き、罪深き人生 を懺悔した上で後の世で助かりたい旨を申し出たところ、法然から教え導かれた話が『法然上人絵伝』に載せられ ていますが、絵伝では神崎ではなく、 播磨国・室の泊で起こったこととして記されています。上田秋成は宮城の話をモチーフにした「宮木が塚」を『春雨 物語』に収めています。作品の中で、自 身が加島に暮らしていた頃に塚を探し て尋ね歩き、扇を開いた程度の大きさ の標石を探しに探して見つけたもの の、塚と呼ばれる跡はあるかないかわ からない程であり、あわれに思って歌を詠んで手向けた、とあります。
 
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう