2017
 
多忙な毎日からやっと解放されて遅ればせの紅葉見物に出かけることにしました。
自宅を出るときは「箕面の紅葉見物&トレーニング」に行くつもりでした。ところが阪急電車乗り場でなぜか「長岡京に行先変更~文句あるか?」「意義な~し!」と言うことになりました。どっちみち足慣らしトレーニングを兼ねてなので行先は何処でもいいのです。(グループ山行では、計画変更できませんがプライベートはどうでもなりますわ)
長岡京駅に下りた途端「さぶ~っ!」ヤッケから急きょダウンに着替えました。京都は寒いとは聞いていましたが風邪を引きそうな寒さです。まずは大きな鳥居が目立つ長岡天満宮へ紅葉を求めてやってきたのですが「遅かった!」 平日で、しかも底冷えとあって散歩をしている人さえ見つかりません。落ち葉をかき集める老婦人に挨拶を済ませ、いざ天満宮へ。
 錦水亭
 京都近郊の長岡(長岡京として10年間、都がありました)に位置し、錦水亭の名称は山階宮の命名によります。 八条宮によって造成された八条ケ池を取り入れての大小の数寄屋づくりのお座敷が点在し、 老松、つつじ、さくらにおおわれた自然の大庭園とともにその景観はすばらしい限りです。
長岡天満宮のご祭神は,学問の神様として有名な菅原道真公です。道真公が太宰府へ左遷される途中、かつて 在原業平らと共に詩歌管弦を楽しんだこの地に立ち寄り,都を振り返って名残を惜しんだ事から 「見返り天神」とも呼ばれています。太宰府にお供した3人が別れ際に戴いた道真公自作の木像をご神体として祀ったのが長岡天満宮のはじまりと云われています。
▲ 長岡天満宮
道真の死後、都では落雷や相次ぐ不幸が重なり、それが道真の怨霊による祟りということになりました。そこで、道真は北野天満宮に「天神様」として奉られ、商売繁盛の神様、学問の神様として信仰の対象となっているのです。梅紋あるいは、梅鉢紋は、菅原氏の流れを汲む氏族が後に家紋として採用したそうです。
境内に大きく目立つ牛の像に興味をそそられました。説明文によると菅公は丑年のご生誕であり、元服の当夜、白牛が角をくじいて死ぬ悪夢を見られ、たいそう気にされて自ら牛を画き、 お酒を供えてご尊拝せられたということです。菅原道真公は北山に茸狩りの宴を催されましたが、いずこからともなく小牛が宴席近く寄り、頭を垂れていかにも道真公を敬うがごとくでありましたので、道真公はたいそうお喜びになって御館に連れて帰り、可愛がったそうです。又、道真公が太宰府にご左遷の御時、道明寺から、「こもやの里」まで落ちゆかれる途中、時平の命を受けた笠原宿禰等が後を追って切りかかり、お命危うく見えたとき、松原の中から荒れ狂った白牛が飛び出て、笠原宿禰の腹を突き刺しました。よくご覧になると道真公が都でご愛育になった牛でありました。道真公は「都にて流罪 極る前夜、不思議に逃げ去って姿を隠し、度々に凶非を告げ、今また此の危難を助けし忠義の牛、筑紫まで伴わん」と涙を流してお喜びになりました。これにより牛にお乗りになって、御心安らかに旅立たれたのであります。そしてこの太宰府の地においてひたすらに謹慎の意を表されておりましたが、西暦903年2月25日の丑の日に薨去されました。由来、全国の天満宮には牛の像が数多く奉納されているのであります。
長岡天満宮参拝後は光明寺の紅葉見物に移動しました。
▲長岡天神から光明寺への道すがら
 光明寺紅葉参道
長岡天神から光明寺へは2.7km。歩いてもそんなに時間がかからず到着することができました。
拝観料500円を払い外国の観光客の混雑する中を突き抜けるとあの有名な「もみじ参道」に出ました。光明寺の紅葉は、特に人気が高いのが、総門から女人坂と続くもみじ参道です。
資料によると光明寺の紅葉の色づき始めが、11月上旬、見頃が11月中旬から12月上旬とあります。「まだ間に合うぞ!」そんな期待に胸膨らませてもみじ参道を歩きましたが、ここも散り急いでいました。赤色に染まり燃えるような紅葉と表現するには・・・・悲しい光景でした。(500円勿体なかったなぁ)
光明寺本堂
光明寺回廊
早めのお昼でうどん屋さんへ飛び込み 「きつねうどん二丁」
うどん屋を出た所にいた警備員のおじさんに「善峯寺まで歩いてどのくらいかかりますか?」と聞くと「ひぇーっ!歩いて?無理、無理!バスはここからは走ってないのでタクシーで行きなはれ!」 丁重に礼を言い、しばらく歩くと別の警備員が光明寺駐車場の交通整理をしていました。同じ質問をしてみましたが「歩いては・・・奥さ~ん善峯寺まで歩いてどのくらいかかりますかねぇ?」と、路上で野菜を販売していたおばさんに聞いてくれました。「1時間以上はかかりますよ」とのことでした。「1時間なららくらく歩けるか…トレーニングにもなるし」と言うことで竹林の立ち並ぶ車道歩きをするのですが、どうも道が違う気がしてきました。しかし人通りもなく民家もなくあるのは竹林の風の音だけ。やっと1台の自転車が通過して来たので呼び止めて「吉峯寺はこの道で合っていますか?」と聞くと「合っていますよ、このまま進み、高速の下をくぐり、坂を登って行くと着きますよ。まぁ頑張ってください」と半分呆れ顔。歩くと言うことに京都の人達は恐怖を感じている様子でした。(笑)
光明寺から善峰寺への道すがら 
▲善峯寺川に架かる善峯橋
しばらくすると後ろから「善峯寺行」と書いたバスが通過して行きました。「あらまっ!バスが走ってるやないの?!」帰り道は歩かないで済むと知った途端、元気回復し、順調に前進です。「善峯寺まであと2.6km」のところまで来ると、きつい上り坂となりました。(なるほど・・これが京都人がびっくりしていた登り坂やな?)あまりのきつさに速度がいっぺんに遅くなり無言状態が続きました。少し登り坂が緩くなった所にお店を見つけました。店先には大きな柿が並んでいます。「おじさん!柿を1個下さい」300円支払ってかじりながら歩きました。今年食べた柿の中で一番おいしかったです。柿を食べ終わらないうちに駐車場に到着です。昔やまたび倶楽部でポンポン山に行くときに歩いた覚えがあります。あの時は寺には入らず登山道の上から日本一の松を覗いたなぁ。

バスを待つおじさんが「まだまだ歩かないと着かないですよ」と脅しとも思える励ましの言葉を頂きました。もうここまで来たら到着したと同じことやなっ!
帰って調べてみたら光明寺から善峰寺へは約4.5km。徒歩1時間です。
▲ 西国二十番札所の善峯寺(よしみねでら)
西国二十番札所の善峯寺(よしみねでら)は、十一面千手観音菩薩を本尊とします。応仁の乱以降衰退しましたが江戸時代に徳川綱吉の母、桂昌院の寄進により再興したといわれています。山門には源頼朝に寄進されたといわれている金剛力士像(運慶作)があります。善峯寺は高い場所にあるので京都市内が一望でき疲れも吹っ飛びました。桜・紫陽花・紅葉の名所としても知られています。日本一の松で有名な遊龍の松(天然記念物)、桂昌院お手植え樹齢300年の枝垂桜や彼女が祈願したといわれている薬師如来、約1万株の紫陽花苑を脊にする幸福地蔵など他いろいろと見所が多く、四季折々に訪れてみるのも風流ではないでしょうか。(その時は歩かずバスで来たいね)京都生まれの桂昌院は、子供の時、母と共に善峯寺へご奉仕されたそうです。ちなみに、桂昌院の幼名が「お玉」と呼ばれていた事から「玉の輿」の語源となっています。 
 境内から見た京都盆地です 中央に小さく尖っているのが京都タワー 其の左の高い山が比叡山です
国の天然記念物 「遊龍ノ松」
善峯寺境内にあるマツ科の五葉松。境内多宝塔と経堂の前に広がる。「遊龍ノ松」とは、幹が左右に長く伸び、龍のように見えるところから言う。ここの遊龍の松は、高さはわずか2~3mだが、左右に伸びた幹は37m以上にもなっている。昔から有名で、大田垣蓮月が「世々を経て光いやます善峯のその玉松のむかしをぞ思ふ」とよんでいる。国の天然記念物に指定。
煎餅を買って 急な坂をスキー下り 高圧空気で路面の掃除 東向日に到着  阪急電車で梅田へ
午後2時24分のバスに間に合うようにきつい坂道を下って行くと工事中のような大きな音がしていました。よく見ると階段の落ち葉を吹き飛ばす手持ち掃除機で道路から谷間に吹き飛ばしていました。長岡天神ではホウキでかき集め、善峯寺では電動と、落ち葉の量の多さがよくわかりました。バスは定刻に発車する予定でしたが、直前にポンポン山から下山した登山者15名が乗り込み車内はにぎやかになりました。私達は阪急向日駅で下車。そこからは阪急電車で梅田まで特急に乗り換えることなく梅田まで時間をかけて戻ってきました。座席の暖房が心地よく、落葉の京都に別れを告げた1日でした。
山門入口で「手焼きせんべい」の看板につられ、早々と味見をし「帰りに買いますね」って言ったから…約束通り帰りに買ってお土産用をリュックに仕舞い、バス停でもポリポリと食べちゃいました。
 【姫の感想
箕面の滝歩きは台風で通行止めとなった個所を回避するコースを選んでいましたが突如長岡京へのミステリートレーニングとなりました。どこに連れて行かれるやらと思いつつも「残り紅葉」が楽しめるのではないかと期待しました。善峯寺まで行ってなければストレスが残っていたかも知れません。1時間以上歩きましたが、歩いただけの値打ちは有ったと思っています。出かけたからには「行って良かったわ」をお土産にして帰りたいと思っています。歴史を紐解き(すぐ忘れるけど)山とは違う味わいを楽しみました。
 文:美智子姫