010-018
 
熱き淀屋スピリッツが生んだ文明開化
秋の気配はどこへやら、熱中症になりはしないかと思われるほどの暑さの中、大阪・淀屋橋からスタートしました。今回は途方もない財力を恐れた幕府から闕所(財産没収)を命じられた豪商・淀屋の軌跡を訪ねます。淀屋の子孫は生き続 け幕末には全財産を朝廷に献上して倒幕を果たしました。淀屋の生きざまは船場商人に伝播して、それが維新革命の源流となります。時代を変えた、熱き淀屋スピリッツに触れてみたいと思います。
淀屋橋交差点がスタートです。まず交差点の北西角にある淀屋跡が終わったら南に渡ってミズノ前を西に進んで二本目を左折南下します。
▲淀屋の碑・淀屋の屋敷跡
淀屋は江戸時代の大坂の豪商です。初代・淀屋常安は現在の北浜に居を構えて材木商を営みながら中之島を開拓して、常安橋に名を留めています。本姓は岡本で2代目以降、青物市(京橋)や雑喉場(靱本町)を開設し、さらに中之島に米市を開いて全国の米相場の基準をつくりました。淀屋橋は中之島に渡るために自費で架けた橋で、米市はそのあと堂島に移り、世界で最初の公設先物取引市場・堂島米相場会所となりました。周囲には蔵屋敷が135棟も立ち並び、井原西鶴の『日本永代蔵』にも淀屋の繁栄が描かれています。5代目の時に「町人の分限を超える贅沢」を理由に幕府から財産没収の「闕所」(けっしょ)となりましたが、その没収資産は現在価値で100兆円に上ると言われています。しかし危機を察知していた淀屋は闕所前に分家して、その後、大坂に復帰。幕末には勤王の志士を支援して全財産を朝廷に献上して、見事に倒幕を果たしました。
少し進んだら右手にあるSUMITOMO MITUIビルの正面玄関の右側に松瀬青々の生誕地の碑あり、さらに南側に手形交換所発祥の地の碑あり。
松瀬青々(せいせい)生誕地
大阪の俳人(1869~1937)で、本名は弥三郎 といいます。当地に生まれて青年期に句誌『ホトトギス』に投稿して正岡子規に認められまし た。同誌の編集にも携わり、大阪朝日新聞では 朝日俳壇を担当。また『宝船』(のちに『倦鳥』)を 主宰して大阪の俳壇に重きをなし、「関西の高浜虚子」と呼ばれました。 菜の花のはじめや北に雪の山 元日や目出度顔なる貧乏人といった句を残しています。大阪あそ歩第一回の海老江編に「松瀬青々居住の地」がありました。
▲手形交換所発祥の地
見落としそうなところに碑だけが残っていました。 明治12年(1879)、振出銀行のちがう手形や小切 手を交換して決済する日本ではじめての手形交換 所が設立されました。東京より8年も早く、当時の大阪金融界の先進性がうかがえます。現在は、大阪銀行協会が交換の役割を受け継いでいます。
手形交換所跡碑から南へ一筋下がり次を左へ折れると帝国座跡のレリーフがあります。
▲帝国座跡
明治43年(1910)に、オッペケペー節や壮士芝居で 知られた川上音二郎が、新派演劇の拠点として、大阪財 界の支援で建築した大阪初の洋式劇場です。「オセロ」 「ベニスの商人」などを上演しましたが興行的には失敗で、音二郎は翌年、楽屋で倒れ、愛妻・貞奴(さだやっこ) に看取られて亡くなりました。建物自体は昭和40年代までありました。
 そこから再び戻り左に折れて、更に南下すると左手に大阪倶楽部がありますのでそこを左折して東へ進みます。
▲大阪倶楽部
大正元年(1912)に本格的な 英国風会員制社交倶楽部として創立。初代の建物は焼失して しまい、大正13年に安井武雄 の設計で再建。「南欧風の様式に東洋風の手法を加味せるも の」として、ガスビル(安井の設計)、綿業会館とともに、大阪の 近代三大名建築と言われてい ます。国指定登録有形文化財。
次の道を右折さらに次の道を右折すると浮世小路です。この通りの南側に、うだつの上がる美術商「圓井」があります。この前に道を東へ進んでいきます。
▲浮世小路
高麗橋通りと今橋通りの間にある幅の狭い小路で、通称「浮世小路」と呼ばれています。江戸時代からある通りで、両側に質屋、寺子屋、米屋、風呂屋、油屋、色宿などがひしめき、まさに浮世そのものに見えたというのが名前のいわれです。宿は隠れ部屋や接待部屋にも使われていたそうで、謎めいた通りです。
浮世通小路を東へ直進して行くと御堂筋に出ます。此処の南角に「御堂筋完成五十周年記念碑があります。ここを左折して一つ北側の信号を渡りさらに東へ行きます。
▲御堂筋
御堂筋を越えて少し行くと道路左側のビルの壁に「懐徳堂跡」の碑があります。
▲懐徳堂跡
大坂の豪商たちが出資して設立された学問所です。商人による本格的な私学は大阪独特のものと言えます。 のちに徳川吉宗から公認されて官許学問所となり、明治2年(1869)まで存続しました。三宅石庵、中井甃庵 などが学主を務め、近代的な合理性を説いた町人学者・富永仲基や山片蟠桃などを輩出。大坂の知のネットワークを形成しました。
懐徳堂の前をさらに東へ進んでいくと古い屋鋪が見えてきます。ここが銅座の跡であり、大阪市立愛珠幼稚園があります。
 ▲愛珠幼稚園、銅座跡
 明治13年(1880)に開園された大阪で最古、日本でも3番目に古い 幼稚園。園舎は国の重要文化財です。玄関表には銅座跡の碑がありますが、銅座は江戸時代、我が国の重要な輸出品である銅の精錬や、輸出港・長崎への回送を管理する役所でした。
銅座の皮脂の壁に沿って北へ進み一つ目を右に折れて東へ進むと右手に適塾・緒方洪庵旧宅があります。
▲適塾・ 緒方洪庵旧宅
蘭学者・医者として著名な緒方洪庵が 幕末期に開いた私塾で、洪庵の号である適々斎から名付けられた「適々斎塾」 が正式名称です。大村益次郎(近代陸軍 の創設者)、佐野常民(日本赤十字社初 代総裁)、橋本左内(安政の大獄で処 刑)、手塚良仙(手塚治虫の曾祖父)、福 沢諭吉(慶応義塾大学の創立者)など、 1000名を超える塾生を輩出して、吉田松陰の松下村塾と並んで、日本の夜 明けをリードしました。のちの大阪大学医学部の源流にもなっています。
適塾の東側の道・三休橋筋を南下一つ目を左折東へ進むと左手に大阪美術倶楽部があります。
▲大阪美術倶楽部
 昭和22年(1947)に旧鴻池家本宅の跡に建てられた大阪の美術商による倶楽部(会社組織)。美術工芸品の展示会、 お茶会、お花の会などに使われています。初代鴻池善右衛門がこの地に分家して今橋鴻池となりました。
 次の角に旧鴻池家本宅跡の碑があります。そこをさらに東へ進み堺筋を左に折れて北上すると北浜交差点に到着です。この交差点の西南の角に大阪俵物会所跡があります。
大阪俵物会所跡
江戸時代、幕府は金銀銅による決済に代えて、干なまこ・干あわび・ 乾燥ふかひれなどの俵詰めを輸出して、これらを「俵物」といいました。延享元年(1744)に集荷の便のため会所が設けられ、移転を繰り返しましたが安永6年(1777) に北浜のこの場所に落ち着きました。
北浜交差点の北西・北東の角にライオンの像があります。
難波橋(ライオン橋)
土佐堀川と堂島川をまたいで堺筋に架かる 全長約190メートルの橋です。江戸時代は 「浪華橋」と書かれることが多く、現在地よ り西に架かっていた反り橋でした。明治45 年(1912)に、大阪市電延長のために現在地に架け替えられました。天岡均一作のライオンの石像が左右にあるので「ライオン 橋」とも呼ばれています。狛犬の阿吽(あうん)の口形をしているが、神社の一般的な阿吽とは左右が逆になっています。
北浜交差点
  
 
 文:美智子姫