003-011
恋風の身で北新地蜆川跡を辿れば」~この世の名残、夜も名残。死にに往く身をたとふれば~ 
 
バーやクラブ、飲食店の営業店がざっと3000店も密集している北新地。そのはじまりは、元禄元年(1688)に河村瑞賢が淀川支流の改修工事をおこなった際、堂島川や蜆川の浚渫土砂で「堂島新地」が生まれたことによります。爾来320年、江戸時代には堂島に公認の米会所が存して日本経済の中心地となり、曽根崎新地は現在にいたるまで日本を代表する遊興街として全国にその名を知られてきました。
▲浄正橋交差点北東角にある鳴門鯛焼本舗 ▲旧曽根崎川(蜆川)の跡地です
今回は阪神福島駅からスタートです。 梅梅田橋跡と蜆川(しじみかわ)現在の新地本通と堂島上通の間に蜆川(別名・曽根崎川)が流れていました。その川がいまの御堂筋と交差するところに蜆橋、いまの四つ橋筋には桜橋、さらに西へ田蓑橋の筋、堂島3丁目交差点あたりに梅田橋が架かっていました。天保13年(1842)に公認の遊所地となった北の新地(つまり曽根崎新地)の中心地は梅田橋周辺で、『心中天の網島』の小春と治兵衛の道行きがはじまる大和屋もここにありました。蜆川は、明治42年(1909)の「北の大火」のあと埋め立てられ、現在の地形になりました。 
▲旧曽根崎川(蜆川)梅田橋界隈 梅田橋ビルは梅田橋の名称を現在に伝える数少ない名称表示です
『曽根崎心中』の「蜆川新地天満屋の場」の舞台です。敵役の九平次がやってきたので、お初が縁の下に徳兵衛を隠しますが、すると九平次は徳兵衛がいないと思って、ここぞとばかりにお初の前で徳兵衛を罵ります。縁の下で歯軋りする徳兵衛ですが、悔しい思いをしているのは、お初も同じでした。そこで「証拠なければ理も立たず。此の上は徳様も死なねばならぬ品なるが。死ぬる覚悟が聞きたい。と独り事になぞらへて。足で問へば打ちうなづき。足首とって喉笛なで。自害するとぞ知らせける。」と、お初は独り言と思わせて縁の下の徳兵衛に「死ぬ覚悟が聞きたい」と問いかけると、徳兵衛は大きく頷いて、お初の足首を取って自分の喉笛をなでて、心中する覚悟があることを知らせました。
▲大阪堂島市役所跡(現大阪中島合同庁舎) ▲上:雙松岡塾跡碑 下:蛸の松大阪中島合同庁舎の南東角にあります
明治22年(1889)、大阪市制発足とともに江之子島に初代市役所が建てられましたが、明治45年(1912)には堂島に移され、2代目の市役所になりました。大正10年(1921)に中之島の現在地に移転するまでここに存在していました。 
▲北の新地の遊女たちの信心を集めた浄祐寺 
舟木一夫さんが歌う 「右衛門七討入り」 YouTubeにリンクします。
北の新地の遊女たちの信心を集めたのがこの浄祐寺。ここに遊女菊野をめぐって実際に起こった5人殺傷事件の犠牲者の墓があります。この事件は、遊女が心変わりしな
い証拠に三味線に書いた「五大力」という文字を「三五大切」と書き換えたところから起こりました。墓には「五大力の墓」とあります。この事件をもとに歌舞伎の『五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)』が演じられ、評判をよびました。また、浄祐寺には赤穂浪士矢頭長助(やとうちょうすけ)、右衛門七(えもしち)父子の墓があります。長助は討入り前に死亡し、右衛門七が父の遺志をついで討入りを果たします。江戸へ向かうには右衛門七には路銀がなく、里人から借金をして出立します。このことを知った大石良雄が里人に借金を返済し、里人はのちに父子の墓を建てたということです。また新地には、淡路屋の遊女お初と心中して討入りを脱落した橋本平左衛門の話もあります。 
▲出入橋:きんつば屋 (本日休業) ▲出入橋と梅田運河
明治7年(1874)に曽根崎の現在地に大阪駅が建設され、その後、鉄道と海運を結ぶために、駅の西側から現在の阪神高速の架かる道路沿いに梅田運河が掘られ、蜆川と交差して堂島川につながっていました。蜆川(当時このあたりでは福島川)に架かっていた橋が緑橋、梅田運河に架かる橋が出入橋です。阪神電車も開業当時は出入橋が起点でした。
▲桜橋跡碑:蜆川に現在の四つ橋筋に架かっていた橋が桜橋で、堂島アバンザの北側に碑があります。
▲堂島薬師堂
聖徳太子の頃からここに薬師如来のお堂が祀られてきて、それが堂島の名のいわれだともいわれています。堂島アバンザの建設のときに127枚のミラーガラスを組み合わせた新しいお堂が完成しました。
▲堂島米市場跡
堂島新地が開発された後、元禄10年(1697)に中之島の米市が堂島に移され、以来、日本の米相場がここで決定されました。中之島ガーデンブリッジ北詰に記念碑があります。周辺には各藩の蔵屋敷が立ち並び、大坂が日本経済の中心地として栄えました。明治2年(1869)に石建米売買が禁止され、さらに明治4年(1871)の廃藩置県で蔵屋敷は廃止されて国有化され、後に民間に払い下げになり、現代に通じる新しい事業所がこの一帯に進出して、大阪の文明開化をリードしました。
▲国産ビール発祥の地
梅田は堂島、ANAクラウンプラザホテルの道を挟んですぐ傍の三角地に、「国産ビール発祥の地」と刻まれた石碑建てられている。大阪市教育委員会が建てたもので、 案内文をそのまま引用すれば「わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが、日本人の手によるものとしては、澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。
当初は大阪通商会社で、明治四年(1871)に計画された。これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが、実現には至らなかった。この計画を通商会社の役員のひとりであり、綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ、明治五年三月から、このあたりに醸造所を設け、ビールの製造・販売を開始した。
銘柄は「澁谷ビール」といい、犬のマークの付いたラベルであった。年間約32~45キロリットルを製造し、中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。」とあった。
この碑文にも触れられているが、我が国のビールの発祥地と言えば、1869年(明治2年)横浜でビールの醸造製造を開始したのが始まりで、これが現在のキリンビールの前身であるとの話が広く流布されてきている。しかし、これは外国人の手によるもので、日本人の手によるものとしてはこ澁谷ビールが最初であるという。大阪人として自慢すべきことかどうかは別にしてもPR不足は否めない。
⑧ 河庄跡碑・近松門左衛門の最高傑作『心中天の網島』に登場し、遊女小春と紙屋治兵衛が逢瀬を重ねた茶屋です。新地本通沿いにあったとされています。河庄跡碑の近くには蜆川の碑もあります。御堂筋と堂島上通の角には蜆橋跡の碑もあります。
▲蜆橋跡碑
 橋の名前は北新地の入り口、御堂筋に面した滋賀銀行のビルの外壁に埋め込まれた形で残されている。
蜆橋の名は近松門左衛門の作品「曽根崎心中」や「心中天網島」などに登場する。
この橋が架かっていたしじみ川は1909年(明治42年)の北の大火の後、焼跡の瓦礫の捨場となり、川としての役割がなくなり、埋め立てが進み、1924年(大正13年)には完全に姿を消した。
ここから北に一つ目の信号を東へ渡り、アメリカ領事館の前を北上すれば左側に大阪天満宮道案内の碑があります
▲大阪天満宮道案内の碑
▲大阪天満宮道案内の碑を過ぎたら北寄りにある梅新東の信号を西へ渡り 梅田新道の交差点にかかる跨道橋を北へ渡ると橋の上から露天神社が見えますので 階段を下りてそちらの方にお進みください。
 ▲露天神社(お初天神)  
近松門左衛門の『曽根崎心中』に描かれたお初・徳兵衛が心中を果たした曽根崎の森の天神社です。ふたりは曽根崎新地の人目を避けるように北へ迂回し、いまの駅前第三ビル、第四ビルの間を抜けてたどり着きました。神社の起源は6、7世紀、難波八十島祭旧跡の一社で曽根の神を祀ったとされています。
菅原道真公が左遷されたとき(901)に当地で詠んだ「露と散る涙に袖は朽ちにけり都のことを思い出づれば」という歌が社名になったといわれています。
 今回はここがゴールです
 
 文:美智子姫