其の13へ戻る 現在 其の14です   其の15に進む
 01:京都~天満  01-2:八幡~天満  02:天満~浅香山  03:浅香山~久米田  04:久米田~和泉鳥取  05:和泉鳥取布施屋
 06:布施屋~海南  07:海南~紀伊宮原   8: 紀伊宮原~湯浅  09:湯浅~御坊   10:御坊~印南  11:印南~芳養 
 12:芳養~稲葉根  13:稲葉根~滝尻  14:滝尻~継桜  15:継桜~熊野本宮  16:大門坂  17:かけぬけ道
 18:大雲取越え  19:小雲取越え  20:那智~那智山  21:速玉大社~那智  22:長尾坂・潮見峠  23:赤木越え
 24:大日越え  25:川の参詣道     姫のリベンジ     ウッチーの補行     那智勝浦散策  感想 & 編集後記
 
77. 滝尻王子―78. 不寝王子ー79. 大門王子ー80. 十丈王子ー81. 大坂本王子ー82. 近露王子ー83. 比曽原王子ー84. 継桜王子
タイム
山の家・夢木楽07:00⇒滝尻王子07:31⇒胎内くぐり 08:00⇒不寝王子08:10⇒ 大門王子11:26⇒十丈王子12:05―12:25(十文休憩所でランチ)⇒
大坂本王子14:23⇒ 近露王子15:32⇒比曽原王子16:43⇒ 継桜王子17:15⇒民宿「のなか山荘」(宿泊)
 
夢木楽で朝食を済ませ、急な坂を鍛冶屋川口まで下り、富田川に沿って国道311号を滝尻まで戻ります。ここ滝尻集落で熊野古道に合流します。
77番「滝尻王子社」到着です。入り口には世界遺産の石碑があり、熊野三山の霊域の入り口に入ったことになります。滝尻王子は、これからいよいよ神々の住む神域に入るという重要なところです。滝尻王子の裏山一帯には八百万の神々が祀られています。側を流れる富田川は、昔は岩田川と呼ばれていました。ここでみそぎを終えると、この滝尻王子に参拝して、神道、仏教の宗教儀式ののち、神楽や、相撲、歌会などが行われました。特に、後鳥羽院が主催した歌会のおりに、藤原定家など当時を代表する歌人が詠んだ和歌が今日まで伝来しており、熊野懐紙として広く知られています。
滝尻王子の向かいには、熊野古道を中心とした中辺路の歴史紹介と観光案内を兼ねた休憩施設、熊野古道館がありますが早朝のためまで開いていません。町内の12の王子社にちなんだ12角形の建物が目印です。
滝尻神社本殿からの道が続き、急な登りが始まりました。熊野古道の雰囲気のある古い石段が続き、蜘蛛の巣のように登山道に木の根が這っています。滑らないように木の根を避けて歩きました。滝尻王子から急な山道を300m上ったところには胎内くぐりと乳岩があります。
▲胎内くぐり
   ▲岩を抱く根  ▲乳岩
『陸奥の藤原秀衡夫婦が熊野詣の途中、婦人がこの地で産気づき、男の子を産みました。生まれたばかりの子をつれて熊野詣をするわけにも行かず、やむなく岩屋に子供をあずけ、参拝をすませて帰ってくると、子供はオオカミに守られ、岩から滴り落ちる乳を飲んで、両親が帰ってくるまで無事に育っていたと伝えられています』熊野詣を済ませ、狼に守られて無事だった子供を奥州へ連れ帰ったと伝えられています。その子が成長して秀衡の三男忠衡になったという話まであるのですぞ。
滝尻王子で外国人の女性と出会いました。一人旅の様です。
岩の隙間は狭く「ん?通過できるのかな?」と戸惑うぐらいでした。無事通過~。
滝尻王子で出会った外国の女性が追いついて来て胎内くぐりを迷っている様子でしたので「おいで~おいで~」と手招きをして首からぶら下げているカメラを取り写真を撮ってあげました。風景は撮れても胎内くぐりは、自撮りできませんので感謝されました。
▲不寝王子
滝尻王子の背後にそびえる剣山(371m)への急坂の途中、滝尻王子から約400m地点に不寝王子の石碑が建っています。林の中に78番「不寝(ねず)王子」跡がありました。塩尻王子からすぐのところに何故設置されたのか謎だそうです。不寝王子を過ぎて、木の根が張った急斜面の登りが続きます。アルプスにでも登っているのかと思うほどに急な登りです。石段の道になり高原熊野神社までは3kmとなっています。
 稜線歩きとなり「剣ノ山経塚跡(つるぎのやまきょうづかあと)」の標識がありました。『ここ剣ノ山の上は、古くから神聖な場所とされてきました。ここから熊野本宮大社にかけて九品の門が建ち、ここは最初の下品下生の門があったと言われています。この経塚跡は、経典を経筒に入れ、それを壷に納めて地中に埋めたところです。明治末期に盗掘され、ここから出た常滑製の壷のみが、いま古道館に陳列されています。滝尻王子の社前にある笠塔婆と言う石塔も、元はここにあったようで、経塚の上に立っていたといわれています。』
▲ベルギーから紀伊山地の霊場と参詣道を旅している青年と…
「このラインで初めて日本人に出会った」 は彼の弁でした」…中辺路はほとんど外国の人でした
石畳の道の道が続きます。少し行くと針地蔵がありました。針地蔵さんは、歯痛を治してくれる地蔵さんとしても信仰を集めていて、お願いをして歯痛が治ったら、針で鳥居の形をつくって奉納したそうです。ベルギーの「mitchell van poeckeさん」と出会ったのもここでした。ガイドブックに大々的に熊野古道が紹介されているらしく1ケ月の休暇の中で熊野古道を歩いているとのことでした。
 ▲雨もまた良いものです ▲ 霧の里・高原
しばらく熊野古道は車道から離れて、樹林帯の中を歩きます。丸太の階段道やきつい登りでNHKのアンテナ塔に到着しました。ここからは下りにある集落に向けて歩きだしました。
集落の中を行くと朱塗りの社殿が見えてきました。高原熊野神社に到着です。高原熊野神社は高原地区の産土神で、高原王子と呼ばれることもありますが熊野九十九王子社には数えられていません。熊野本宮大社から御神体が勧請された高原熊野神社の社殿は、中辺路で最も古い神社建築です。境内を囲う楠の大きさには目を見張るものがあり、樹齢1000年以上!と推定される楠の存在感には圧倒されます。世界的博物学民俗学者の南方熊楠は、明治時代末期、神社合祀が行われる中、この鎮守の森や神社を守り残したことでも知られます。
▲南方曼荼羅の風景地・高原熊野神社
▲ 霧の里・高原
▲高原宿 旧旅籠が並んでいた旅籠坂
高原熊野神社を出て集落の中を歩いて行くと、また石畳道の急登です。道の途中に途中に道標があり「大門王子まで100m」と書かれていました。丸太の階段を上ると79番「大門王子」の朱塗りの社に到着です。
大門王子を出て樹林帯から出ると素晴らしい展望が待っていました。十丈峠の杉林の中に80番「十丈王子」跡がありました。中世の参詣記には重點(じゅうてん)の地名および重點王子の社名で登場しています。 江戸時代には付近に数戸の家があり、王子神社を氏神として祀っていたのですが、明治末期の神社合祀で廃社になりました。いまは十丈は無人の山中になっています。十丈王子の手前に東屋がありランチ休憩を取ることにしました。
▲小判地藏・・・ 小判のかわりに杉の葉を加えるおんなたち
十丈王子の広場から再び林の中の道を行くと笑みを含んだ小判地蔵がありました。飢えと疲労のために小判をくわえたまま、ここで倒れたという巡礼を弔ってたてられたそうです。 愉快な仲間たちは小判のかわりに杉の葉を加えて疲れを吹っ飛ばしました。
悪四郎屋敷跡という説明板があり悪四郎山登山口の道標がたっていました。一里塚跡の石標を過ぎ、上多和茶屋跡に到着です。九十九折りの急な下り坂を行くと逢坂峠。逢坂峠の東側のふもと、谷川のそばに81番「大坂本王子」跡がありました。 
逢坂峠から一緒に下ってきた猫は大坂本王子の押印箱の中を住まいにしているようでした。餌を求めて纏わりついてきましたが、与えることはしませんでした。
矢田峠の猪と言い この猫と言い悲しい思い出になってしまいました。
大坂本王子の先は沢沿に橋を渡り、しばらく歩くと車道が見えてきました。「道の駅熊野古道中辺路」の看板があり、道の駅から峠に登って行くと「牛馬童子」到着です。 牛と馬にまたがる僧服の石像は花山法皇の熊野詣の旅姿であるとも言われ、高さ50cmと小さくてかわいい石像です。今では中辺路のシンボル的存在となっています。明治時代に法皇の旅姿を偲んで彫られました。
▲牛馬童子
▲箸折峠から近露へと熊野古道を下って行きます
熊野詣の宿場として賑わった近露の里の中に鎮座して、産土神としても祀られていたという近露王子は、王子社の中でも最も早く現れた王子のひとつです。近くを流れる日置川は近露王子におまいりする前に潔斎をした清流で、川岸には後鳥羽上皇の御所もあったといわれています。

まもなく近露の集落が一望できました。石畳の道を歩き、急斜面をジグザグに下り車道に出ました。橋を渡ると82番「近露王子」跡がありました。 熊野詣の宿場として賑わった近露の里の中に鎮座して、産土神としても祀られていたという近露王子は、王子社の中でも最も早く現れた王子のひとつです。近くを流れる日置川は近露王子におまいりする前に潔斎をした清流で、川岸には後鳥羽上皇の御所もあったといわれています
▲82番 「近露王子」
近露の集落の中程には近露伝馬所跡があり、この辺りは近露道中といわれ、熊野街道の宿場としてにぎわったところで、江戸時代には十軒の宿屋があったそうです。今でも伝馬所があったという丹田家が立っていました。
集落を抜け熊野古道を歩くと道標があり「比曽原王子までは2.2km」と書いてありました。整備された遊歩道を上って行くと、右に近野神社があり二つの王子が合祀されているそうです。あと500mで比曽原王子、集落を抜けると石段を登ってみると、83番「比曽原王子」の古い石碑がありました。
熊野古道に戻って、この日最後の継桜王子を目指します。細い道を行くと民家が見えてきました。一里塚跡の石標もあります。さらに進むと野中伝馬所跡がありました。江戸時代、野中には11頭の馬が準備されており、人足はいつでも出られるように用意されていたそうです。中辺路には「上三栖・芝・高原・近露・野中・伏拝」の5ケ所の伝馬所が設置されていたそうです。
▲野中の一方杉 と 84番 継桜王子
茅葺きの茶屋があり店の前には小さな鯉のぼりが掛かっていました。「とがの木茶屋」です。神社があり石段が続いていました。石段を上がると84番「継桜王子」社です。参道の両脇には「野中の一方杉」と呼ばれる杉の巨木群に圧倒されました。国史跡、県指定天然記念物の名木で、継桜王子の境内を覆うかのようにそびえる樹齢800年の杉の巨木群です。杉のすべてが熊野那智大社のある那智山の方角にだけ枝を伸ばしているといわれるご神木です。
まるで那智を遥拝しているかのように見えると言われています。
▲とがの木茶屋 ▲野中の清水
継桜王子が本日のゴールです。ここから宿に電話をして継桜王子に到着したことを告げました。「野中の清水」で待っていると迎えの車が来てくれました。

お風呂に入り夕食をしていると先ほど到着し、夕食を終えたばかりの外国の女性が泣きながら「いまから京都に行かなければいけない用が出来た。」と訴えていました。宿のおかみさんが紀伊田辺駅まで送って行ったらしいですが色々な事が起こると宿の旦那さんが話していました。
 MEMO 熊野古道 紀伊路 12 芳養から稲葉根王子
民宿のなか山荘(宿泊)  9140円(食事付き宿泊=8640円、弁当=500円)
 文:美智子姫  
 
其の13へ戻る このページのTOPへ   其の15に進む

戻る