Yamatabi-CLUB000
土佐中村を離れて50年…一つずつ消え去っていく 故郷とのつながり
ついに訪れてしまった 恩師との別れ

11月25日、パソコンを起動しメールチェックをすると 見慣れたような見慣れていないような名前の発信者からの一通のメール。
先生が、柳川先生が亡くなった。なんで、どうして、何がなんだか解らなくなり頭の中は真っ白。25日って今日やないの、昨日の夜に着信していたんや。どうしてもう少し早くパソコンを起動しなかったのだろう、後悔の念を抱きながら、帰らなくては、何をおいても帰らなくては。気は焦るばかり。
とりあえず約束をしている用事を済ませ、用意をして車を走らせ始めたのは正午を回っていた。
焦る心を抑えながら慎重に運転をし、阪神高速道路から明石大橋を渡るころには14時近くになっていた。
GPSの到着予測時間を見ると19時10分を示している。到底6時からのお通夜には間に合わない。
しかしこんな時に運転をしていることが事故に繋がる場合も多い様なので速度違反をしないように安全運転に努めて車を走らせる。
小学校5年、6年と担任をしていただいた恩師との思い出が細かく脳裏を駆け抜けていく。
片田舎の貧しい家に家庭訪問で来てくれた事。父親が小学校4年の時に亡くなっていたので母子家庭の私をことのほか気遣ってくれたこと。お金が無いから算盤や書道を習わせたくても習わせることができないと申し出た母の心を汲んでくれて放課後僅かな時間を見つけては教えてくれた。
電子計算機が当然のようになった平成の時代に入ってからも、加減は算盤のほうが早いと自負し、在職中はいつも使っていたものです。
母親も 「柳川先生への恩義は忘れたらいかんよ。どんなことがあっても恩を仇で返すようなことをしたらいかんよ」 それは念仏のように口にしていたものでした。
その母が中学一年生の一学期の終わりに亡くなってからは姉を頼って中村市に住まいを移した。中村市には先生の住まいもあり、その後も多大なるお世話になったものです。
その先生ともう話すことができない。本当だろうか。頭に浮かんでくるのはあの優しい笑顔と物静かな話し声だった。
高松道、徳島道、高知道と乗り継ぎ須崎市を過ぎ、国道56号に下りた頃には辺りは暗くなっていました。暗くなると気忙しく感じてきます。悲しみもさらに増してきます。対向車のヘッドライトが涙目に入ると光が拡散され前方が見にくくなってきます。
幼い頃、幡多郡と呼ばれていた故郷は中村市となり、現在は四万十市と名前を変えています。市の名前だけでなく町も大きく変貌を遂げているようです。四万十市に入り、くろしお鉄道・古津賀駅の周りは大きく様変わりをしていました。この駅は1988年(昭和63年)4月1日 土佐くろしお鉄道転換と同時に開業した駅ですが、当初は田んぼの中の駅でした。しかし今は違う、ローソン、すき家、TSUTAYAなど、大阪で見かける店はほとんどあるようです。命に継承があるように町も変わって行くんやなあ。
お通夜・葬儀の会場に着いたのは7時30分を回っていました。受付にはどなたも見えず、二階の会場に上がってみると、メールをくれたご長男が迎えてくれました。会場の係員に言われるまま二礼二拍手一礼の神葬祭の作法でお参りをし納棺された遺体と対面したときはの悲しみはとても表現できるものではありません。お顔に触れたときのあの冷たさは生涯忘れることはないでしょう。
ご長男から現場の状況や怪我の様子など細かく説明を受け、より悲しさと寂しさが増した心を引きずりながら会場をあとにしました。
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葬儀・告別式当日は先生のお宅に遠くから手を合わせ、少しでも恩師の側に居られるように早めに会場に行きました。多少心は落ち着いていたつもりですが棺を目にするともうだめでした。一条神社の神官様の祭詞奏上、微音で警蹕が行われ玉串奉納、それぞれの別れが終わり、中央に置かれた御遺体と最後のお別れ、献花。私はご長男にお願いをして、来春行われる蕨岡中学校の同窓会の招待状を納めていただきました。「どんなに多忙であっても一緒に出席しよう」って話し合っていたのになあ。
小学校5年生のときにお会いして約50年、故郷に帰る度にお世話になりました。あるときは駅まで出迎えていただき、あるときは車をお借りしたりして、数え上げればきりがありません。
四万十川ウオークの時には下見のときも御協力頂きました。また本番では愛車エステマに乗って緊急用に伴走もしてくださいました。
多くの山仲間やウオーキング仲間にも先生の存在は知っていただいています。その方たちにも訃報を知っていただきたく、ここに記した次第です。
柳川通大人命これが霊璽に入った恩師のこれからの名前なのです。
先生を見送ったあと、その報告を兼ねて両親の眠る墓所へ行きました。訪れる人もないために墓に通ずる道は雑草で生い茂っているだろうと長靴、鎌、ノコなどを持参しましたが冬枯れ状態で手間いらずでした。
私が帰るときはきまって春先の気候のよい時期を選ぶため雑草も勢いよく伸びていたのです
これからの墓参りは初冬に限るね。
墓前に供える榊の用意ができず、山に自生していた、万両の枝と南天を手向け 「『花はなんの花 つんつん椿〜水は天から もらい水』ちゅうからこれで辛抱してや」
歌の好きだった母に、歌で話しかけながら掌を合わせ
「父ちゃん母ちゃん。先生がそちらにいっちゃったんでよろしくね」
そう語りかけました
今日は恩師を送るための帰省だったため、あちこちに点在する親類の家には立ち寄らず故郷・蕨岡を後にしました。
途中の「良心市」という、地域の婦人達が運営している「道の駅」もどきに寄り、「ばんぼ」を探しましたが売り切れていました。四万十名物のお寿司を2パック買い故郷の味を懐かしむことにしました。
帰路、藤集落を通過する頃、懐かしさのあまり車を停めました。
たぶんこの辺りに大きな紅葉の木が有ったよなあ。道路の拡張工事で詳しい場所が解らなくなっていましたが、間違いなくこの辺りです。
ここには大きな紅葉の木があり、幼い日によく登った記憶が蘇ります。義兄一刀水から「お前は紅葉の枝にひっかかって泣いていたのをかわいそうにと言うて拾ってきたんや」と言われ続けた紅葉の大木は今はありませんでした。
この場所に間違いありませんでした。よく見ると道路開発のために移転したものの根付かずに枯れてしまったそうです。地元の人達の熱い要望で苗木を植え育てていると説明書きがありました。
生みの親のような紅葉の木のそばで記念撮影をしました。
今、この一画に育つ2本の紅葉の木は父であり母であるような感じさえしてきます。
四万十川近くに「安並の水車」という観光スポットがありトイレ休憩も兼ねてハンドルをそちらに回しました。多少老朽化が進んでいる水車群の中には回らないようにしているものもありました。水の流れに合わせてゆっくりと回る水車に目をやりながら、先ほど購入した「四万十の寿司」を頬張りました。旨い!ゆずの香りがして懐かしい味に「もう1パック買っておけばよかった!」と後悔しきりではありましたが引き返す時間はありませんでした
画像をクリックしていただくと拡大します 安並の水車
四万十市街地を抜けカーナビは「自宅に帰る」にセットし高知高速道路に入る手前の道の駅「かわうその里」で休憩。
ここも帰る度に変わっているようです。売っているものも以前多かった生鮮品のコーナーはだんだん小さくなり、何処でも売っている様な品物ばかりです。懐かしくなりハスがほしくて探しましたが今はシーズンオフとか、手に入りませんでした。

突如「この近くに横浪三里という絶景地があるはず。行ってみよう」ということになりすこし寄り道をすることにしました。カーナビをセットし直して海岸線をひたすら走ると内海と黒潮の織り成す素晴らしい景観と出合うことができました。場所は高知県須崎市と土佐市にまたがる湾で正式名称は浦ノ内湾と言うのですが、湾口から湾奥まで約三里(約11.7キロメートル)あるところから横浪三里とよばれています。
途中の展望台にはりっぱな武市瑞山(通称半平太)の像があり「まっことびっくりしたぜよ」
坂本龍馬の遠縁にあたり、優れた剣術家でしたが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて土佐勤王党を結成しましたが最後は切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅したとあります。ドラマでは切腹のシーンで有名になっていました。


帷子崎の展望台には数組の観光客がいて屋台のお店も出ていました。捨て猫が5匹ほどたむろしています、客が残した残飯で生活をしているのでしょうか。ここで猫のおもしろい看板を見つけました。
「ねこからのお願い4箇条」と書いてあり思わずシャッターを押してしまいました。
高知県が設置したもので左図のように書いてありました。
ニャンと言っていいのかわかりませんが強く生き延びてほしいと思いました
横浪三里のドライブを終えて再びナビを「自宅に帰る」にセットし高知自動車道を大阪に向けて走りました。白バイも走っているし、気をつけてかえろう
恩師が亡くなったことで今後は度々この地を踏むこともなくなるだろうと思うとまた涙が出てきてしまいました。
何度か休憩を経て徳島自動車道あたりで時間はまだ5時前だというのに薄暗くなりかけてきました。
夜間の運転はとても疲れるし、いつも助手席や後ろに座って呑気に乗っていた自分を反省しながら安全運転に心がけました。
「柳原〜西宮」まで工事渋滞15キロメートルと出ていましたがノロノロでもこのまま高速道路を走るしかありません。
下の道もおそらく混雑しているはずです。
淀川を渡り海老江出口で降りた時は時間は21時を過ぎていました。気が付けば夕食がまだだという事になり(車の中で何やかんや口にして空腹ではないのですが)駐車場のあるレストランを探して遅めの夕食を摂ることにしました。あとは自宅に帰りパタンキュー

今回は通夜・告別式が主たる目的ではありましたが、恩師が生きてきた四万十市の空気を少しでも長く吸っていたいと思い、いろいろ寄り道する結果となりました。人の命ははかないものです。
犬の散歩さえしなければ・・・と考えてみたりしましたが日課に散歩があったからこそ84歳のいままでお元気でおられたのかも知れません。災難は瞬間にやってきます。
登山中の、特に下り道でのつまづきは頭部打撲の危険性があります。
「登山中にはヘルメットをかぶろう」
今わが倶楽部ではリーダーが率先してヘルメット着用を推奨しています。恩師が死をもって私達に警鐘を鳴らしてくれたように思います。
00000 文:美智子姫