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2011年11月18日 金曜日
 柳ノ宿〜吉野神宮〜吉野神宮〜黒門〜蔵王堂〜金峰神社
平成23年4月30日にスタートした大峯奥駈道は金峰神社を起点にしていたため、大峯七十五靡のうち、75番 柳の宿(やなぎのしゅく)、74番 丈六山(じょうろくさん)、
73番 吉野山(よしのさん)、72番 水分神社(みくまりじんじゃ)への参詣が残っていた。
紀伊半島の台風被害があり日延べをしていたが秋も終わりに近づくこの日、逆峰の初番にあたる柳の宿から金峰神社までを訪れてみた。
吉野川北岸と南岸をつなぐ渡し場の跡。この柳の渡しのあたりは、万葉の昔から「六田の淀(むつだのよど)」として詠まれ、古来からよく知られていた。江戸時代には、吉野山の花見や山上参りが盛んになり多くの人が、この渡しを利用して吉野山に登った。
 ▲柳の渡し跡
吉野川の「柳の渡し」
吉野川に沿って走る、近鉄吉野線の六田駅から吉野川の上流方向に歩いていくと吉野川を渡る美吉野橋の手前に「柳の渡し」の址が在ります。かつては大淀町北六田と南の吉野町六田を結んだ渡しで、美吉野橋が架かるまでは、約3キロ上流の「桜の渡し」、約3キロ下流の「椿の渡し」と共に吉野川の三渡津の1つであり、大峯七十五靡第75番に数えられていました。この場所は順峰の修験者にとっては終わりの靡きであり、逆峰の修験者にとっては大峯への北の入口なのです。
▲六田の宿(しゅく)の役行者像
柳の渡し(六田の渡し)を北から南へ渡った所が、「六田(むつだ)の宿」で、当山派の修験者は、ここ吉野川で水垢離(みずごり)を取って身を清めてから吉野山を経て大峯参拝の後に、熊野へ下山され、また毎年9月7日、ここで「行者まつり」が行われます。なお、万葉集で「六田」に関する歌は、2首詠まれているようです。
音に聞き 目には未だ見ぬ吉野川  六田の淀を今日見つるかも  巻7−1105
河蝦(かはず)鳴く 六田の川の川楊の ねもころ見れど飽かぬ川かも 巻9−1723
ここからは大峯・奥駈道の残りをたどることになります。仲間の皆様には、貴重な時間を付き合っていただくこととなりました。まずは柳の宿、六田の渡し跡には
 「たらちねの 親にもらいし 皮法衣 今ぬぎ捨つる 吉野川上」 と刻まれた歌碑がありました。 
▲途中左曽の十二社神社に詣でました。氏神様のような小さな社殿でしたがなかなか威厳のある社でした。 
▲吉野神宮に参詣 
 ▲蔵王堂
 本殿・拝殿・神門はかつて後醍醐天皇が京都の御所へ帰還される事を熱望されていた心情を汲んで、京都の方角を向き、北向きに建てられている総檜造の近代神社建築の代表とされているようです。
境内ではお正月の初詣に向けて補修が進められ、早々と準備が行われていました。 
 ▲蔵王堂界隈
▲金峰神社 鳥居 義経の隠れ塔 役ノ行者像
金峰神社
東日本の復興を祈ってはじめたことでしたが8ケ月が経ったいまも被災地の皆様は悲しみが癒えてはおりません。亡くなった家族はまだいずこにいるのかわからない人々もいます。それでも懸命に前を向いて歩み始めました。私には祈ることしかできませんがどうぞお体に十分気をつけて力強く生きて行ってほしいと思っています。
全てを終えたということで、満願成就の内祝いと今日ご参加いただいた皆様へのお礼の意味をこめて、大和名物「柿の葉寿司」をプレゼントして昼食用にしてもらうことにしました。
またここの柿の葉寿司の美味しいこと!一口食べた皆さんは
「みやげに買って帰ろう!」と車から降りて店の中に消えて行きました。
動きの早かったこと!早かったこと!
また天川や洞川に行くことがあれば、また買って食べたいとおもうほどでした。自家製と書いてありましたので店先にいたおばさんが真心をこめて作っているのでしょう。美味しかったです。
文:美智子姫  
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