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 01:京都~天満  01-2:八幡~天満  02:天満~浅香山  03:浅香山~久米田  04:久米田~和泉鳥取  05:和泉鳥取布施屋
 06:布施屋~海南  07:海南~紀伊宮原   8: 紀伊宮原~湯浅  09:湯浅~御坊   10:御坊~印南  11:印南~芳養 
 12:芳養~稲葉根  13:稲葉根~滝尻  14:滝尻~継桜  15:継桜~熊野本宮  16:大門坂  17:かけぬけ道
 18:大雲取越え  19:小雲取越え  20:那智~那智山  21:速玉大社~那智  22:長尾坂・潮見峠  23:赤木越え
 24:大日越え  25:川の参詣道     姫のリベンジ     ウッチーの補行     那智勝浦散策  感想 & 編集後記
 
85. 中ノ河王子(中川王子)ー86. 小広王子ー87. 熊瀬川王子ー88. 岩神王子ー89. 湯川王子ー
90. 猪鼻王子ー91. 発心門王子ー92. 水呑王子ー93. 伏拝王子―本宮
 タイム
継桜の宿07:00⇒ 中川王子07:32⇒ 小広王子08:12⇒ 熊瀬川王子08:35⇒ (う回路を通過のため岩神王子は立ち寄らず)⇒ 湯川王子11:16⇒
三越峠関所ランチ11:58-12:10⇒船玉神社13:25⇒猪鼻王子13:34⇒ 発心門王子14:02⇒水呑王子:⇒ 伏拝王子16:15⇒本宮到着16:20
本宮16:45⇒紀伊田辺着19:00⇒紀伊田辺発19:00高速バスに飛び乗り20:00大阪着
ラストです。1月7日に歩き始めて、泣いても笑ってもこの日は熊野本宮に辿り着かなければなりません。宿の車で昨日ゴールした継桜王子まで送ってもらい歩き始めました。ゴールした後、本宮から紀伊田辺までの最終バスに乗れなければ本宮で、もう一泊するか野宿せねばなりません。
▲宿を出て継桜王子から出発します
▲秀衡桜
継桜から歩き始めてすぐに「奥州秀衡三代桜」がありました。『奥州の藤原秀衡夫妻が熊野参りをした際、滝尻の岩屋で出産し、その子を残してここまで来たが、杖にした桜の木を地に突き刺して子の無事を願ったとされ、その木が成長したのが秀衡桜だといわれているという』この桜は明治の中頃までは継桜王子の社前にあったという。現在の桜は何代目かで、明治中頃に現在地に植えられたものという。今は何代目かの植え継がれた桜である。秀衡にまつわる伝説は、乳岩にもありましたがここにも繋がっているのです。そしてここには和歌山県の朝日夕陽百景の碑もありました。
ゆるやかな下り道を歩いていくと「安倍晴明の腰掛け石」がありました。平安時代の陰陽道の大家安倍晴明がこの石に腰掛けて休んでいたときに上方の山が急にくずれそうになり、晴明は得意の呪術で崩壊を未然に防いだといわれています。と言うことは安倍晴明も熊野詣をしていたことになります。
しばらく歩くと「中川王子まで400m」の道標が立っていました。かなり険しい道を進むと杉林の奥に85番「中川王子」と刻まれた石碑が立っていました。
▲85番 中川王子
86番「小広王子」跡
坂道を下って行くと、「熊野古道なかへち」という大きな標識がたっていて、86番「小広王子」跡に到着です。小広王子というバス停に青い説明板が並んでいました。王子跡の石碑もありました。
小広王子跡が峠の上で、100mほど下ると熊野古道の道標がありました。細い杉林の道を下って行くと石畳の残る道に出ました。車道に出たり、山道に入ったり、樹林帯の中など複雑な道ではありましたが道標に番号が書いてあり見落とさなければ迷うことはありません。
しばらく上ったら、87番「熊瀬川王子」と刻まれた石碑が立っていました。寂しいところにぽつんと。
 ▲第87番 熊瀬川王子
途中には和歌山から二十八里という一里塚の石標がたっていました。 
▲一里塚跡 ▲草鞋峠への登り
丸太の階段を上り草履峠に到着です。  
熊瀬川王子からわずかな距離を進むと杉林を下って行きます。『西の草鞋坂の坂を女坂、東の岩神峠の坂を男坂といい、合わせて女夫坂(めおとざか)と呼ぶ。この坂は熊野古道の中でも難所として知られる。草鞋峠と岩神峠を結ぶ谷間には仲人茶屋と呼ばれる茶屋跡がある。』とありましたが、ここで「う回路」を通れとの指示が出たのです。女坂(めざか)峠を越え仲人茶屋、男坂(おとこざか)を通り岩神王子へ行く道が通れなくなっているのです。
▲草鞋峠から女坂を下って林道に出ました ここからしばらく林道を南へ歩きます 
う回路4kmは、ひと山越えるほどのきつさがありました。でも男坂も結構きついのです。岩神ルートよりう回路の岩上峠ルートの方が500m長いだけなんです。
従って88番「岩神王子」と(道標44番から50番は)は通過できなかったことになります。
途中にあるはずの「おぎん地蔵」も通過できていません。
『江戸時代、この地で悪党に襲われ、命を落とした京都の芸者おぎんを哀れんで、地元の人がたてたお地蔵さんです』 お参りできなくて残念です。
▲みなさんゴンパチ摘んだり 靴底剝がしかけたり 靴底拾ったり お忙しいことですね
▲岩上峠 迂回ルートの印象…ユズリハの多い山道です
▲蛇形地蔵
蛇形地蔵(じゃがたじぞう)への道標が現れてきつい山道を下ると蛇形地蔵がありました。『この付近で出土した海藻の化石が蛇の鱗のように見えることから「蛇形石」と名付けられ、それを背において祀られているこの地蔵尊は「蛇形の地蔵さん」とも呼ばれ、明治22年の大水害以前は岩神峠にあったという。言い伝えによれば、熊野を往来する人々がよくこの峠で「グル」という妖怪にとりつかれて倒れる遭難が相次いだため、寛政年代に岩神峠にこの地蔵尊を建てて旅人の遭難を防いだという。明治の大水害時には、岩神峠から不思議な音が聞こえ、村民は脱出し遭難をまぬがれ、これ故に地蔵尊をここにお迎えし祀ったという』
熊野古道に戻り橋を渡って少し行くと湯川王子社に到着しました。89番「湯川王子」社。湯川一族発祥の地という碑もたっていました。湯川一帯は、戦国時代に御坊平野を中心に紀南に威勢を誇った湯川氏の発祥の地とする伝承があります。
▲89番 「湯川王子」社
▲ 三越峠関所外国からの参詣者とのスナップです
熊野古道を、ひたすら歩き三越峠に差し掛かりました。木戸門には三越峠関所と書かれていて、熊野古道はこの門をくぐって行くのです。関所前で昼食を食べていると続々と外国人の人たちがやってきます。途中で出会った人もいますし初めて見る顔もあります。滝尻から歩いてきた人もいれば近露からスタートした人もいますがゴールは熊野本宮大社で、みんな仲間意識が強く、そこらへんにいた人たちと記念撮影をしました。
 ▲道の川の集落跡
 木戸門の三越峠関所をくぐり、かなり長い距離を歩き続けると道の川の集落跡があり、さらに進むと橋の袂に「熊野古道赤木越」の道標がたっていました。赤木越の道は湯の峰温泉に至るサブルート。私達は本ルートを行くことにしました。進んで行くと船玉神社と稲荷社の二つの神社がありました。船玉の由来は、昔この地にあった滝壺に一匹の蜘蛛が落ち溺死しかかったところを水行していた神が見つけ、木の葉を投げてつかまらせ命を救ったのが始まりで、それがヒントで神様が大木をくり抜き船を作ったそうです。以後、船の祖神としてこの地に祠が建てられ崇められてきました。滝壺は明治22年の大水害で埋没したそうです。
▲赤木越え・大日越え方面への分岐点
▲船玉神社と稲荷社の二つの神社
▲猪鼻王子跡
神社から熊野古道は林道を離れて杉林をどんどん下って行き、平坦な場所に90番「猪鼻王子」跡がありました。スタンプの木箱もありました。猪鼻王子と刻まれた石碑があり傍らには小さな石仏もありました。ここの説明書きは高札形で世界遺産のマーク付き。
▲91番 発心門王子社
発心門と言う語は山岳信仰における四門修行に由来する。四門修行においては、山上の聖地に至る間に発心・修行・等覚・妙覚の4つの門を設け、それらを通り抜けることによって悟りが開かれると説かれた。このとき、発心とは発菩提心、すなわち仏道に入り、修行への志を固めることを意味する。すなわち、発心門とは聖域への入り口を意味している。
天仁2年(1109年)の藤原宗忠の参詣記は、ここに大鳥居があり、参詣の人々はその前で祓いをして鳥居をくぐったと伝えている。発心門とは本来は字のごとく楼門であるが、ここでは鳥居であり、そのそばにあったことから発心門王子の名が与えられた。建仁参詣記に記されている。
急な階段を登ったり車道に出たりして歩いていると階段の急な登りに出てこの登りには名前がついていました。「たっくん坂」です。「たっくん」とは地元町役場の元産業課長(故人)が、この熊野古道の「発心門」へのルートを探し出したそうで、その功をねぎらい愛称をつけたものだそうです。たっくん坂には丸太や石でつくった階段があり、急登もあり先には鳥居が見えてきました。道を渡ったら石の鳥居と赤い社がありました。発心王子社です。世界遺産の石碑もあり91番「発心門王子」と書かれた道標も大きく立っていました。鳥居をくぐってお詣りを済ませました。丁度バスが到着したところで降車してきた人の中に日本人はひとりもいませんでした。
 発心門には「熊野本宮大社までは6,9㎞」と書かれていました。
▲発心門から本宮大社へ向かう街道筋
写真未撮影ですが、この辺りにある歯痛地蔵は江戸時代、地元の人は歯が痛くて困った時には、新宮や田辺まで泊まりがけで行かなければならない。そんな時、この地蔵が「歯痛によく効く」とされ、親しまれてきました。この歯痛地蔵が「効く」と言われるようになった理由は、歯痛が我慢できなくてお地蔵さんに拝みに行った時には、もう痛みのピークを過ぎている。だからお参りしたら痛みがひいたと信じたのでしょう。
▲92番 「水呑王子」
93番「伏拝王子」
▲果無山脈を望む
菊水井戸
この辺りに菊水井戸らしき井戸がありました。屋根があり滑車の釣瓶設えてありました。井戸には蓋がしてあり綺麗な井戸でした。
この地区は山の高台にあるにも関わらず、井戸や湧水が多く湧き出しています。その代表が熊野古道沿いにある菊水井戸です。昔ながらのつるべ井戸で、「くみ上げた水を戻すのは止めてください」と書いてありました。 ここは未撮影でした。
▲三軒茶屋
 ここには昔 三軒の茶屋が有ったことからこう呼ばれている。また高野山を起点とし薄峠、伯母子峠、三浦峠、果無峠などを通る小辺路ルートとの合流点でもある。
▲ 「九鬼ヶ口関所(くきがくちせきしょ)」
現在は三軒茶屋に九鬼が口関所がありますが、本来は小辺路を少し下った所の九鬼ケ口と言う所にあり、熊野に入る参詣者あらためをし、通行税を取っていました。
通行税は十文と言われ現在の換算で200~250円程度のようです。
▲94番 「祓殿王子」跡
94番「祓殿王子」に到着です。本宮大社にお参りする前にここでお祓いをし身を清めてからお参りしたのです。
祓殿王子のすぐ先に石の鳥居が見えました。熊野本宮の裏の参道です。石の鳥居をくぐらず横の道から入るのが正式だと神社の人に教わりました。拝殿前の広場には八咫ポストという黒いポストがあり、ここでゴールの記念撮影となりました。
神門をくぐると三つの社殿が並んでいました。左から結宮、本宮、若宮。天満から出発してこの日までの無事に感謝し手を合わせました。ゴーーーーーールです。
熊野本宮大社
本宮のお詣りがすみました。158段の石段の左端を下りましょう。長い石段を下って車道に出てわずか10分足らずで最終便の紀伊田辺行のバスが出発します。神が舞い降りたという大斎原は次回に持ち越して紀伊田辺行の最終バスに間に合いました。バスに揺られる事2時間・・・途中でトイレ休憩やらビールを買うための臨時停車やらとサービス満点です。
紀伊田辺駅に到着したら19時33分発の電車か19時50分発の特急しかありません。(特急料金含むと4320円)すると大阪駅行きの高速バス(料金は2880円)が目に入りました。まだ間に合います。22時には大阪駅高速バスターミナルに到着とのことで電車より1時間は早く着くことになります。電車の切符をキャンセルして高速バスに間に合いました。
すべてぎりぎり状態の綱渡りでしたが何とか無事予定の熊野本宮大社までたどり着くことができました。紀伊田辺発19時33分のJRを待っていたら和歌山からの大阪行きは無く、御坊で乗り換え、和歌山で乗り換え、日根野乗り換えで23時着と1時間もロスをするところでした。

本宮大社前から田辺行に10分待ちで乗れたのも、そのバスが時間調整に酒屋の前で停まってくれてビールが買えたのも、田辺で高速バスに乗れたのも、良い運転手さんに出会えたのも、みーーーーんな「神様のおかげ」と言いたくなるほどのラッキーな出来事でした。   『完』
 MEMO  
本宮から田辺(龍神バス)2060円
紀伊田辺から大阪駅まで(高速バス)2880円

●費用の詳細
電車・バス・タクシー 40,050円
宿泊代3泊で 22,440円
合計総費用(天王寺を基準にして)62,490円(18切符効果8,250円含む)
 文:美智子姫  
 
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